クロさん、お疲れ様でした。そしてありがとうございました

クロさんが長い間運営されていたブログ真実と幻想と創価学会が、

今月の4日で更新終了されている。

思えば、自分が『創価学会批評ブログ』を始めるきっかけになったのが、

クロさんのブログだった。

クロさんのブログを読んで、自分もそれまで抱え込んでいた創価学会への思いを吐き出し、

自分が体験した事を世間に伝えたいという思いが湧いてきてブログを始めたのだった。

クロさんのブログはただ創価学会の暗部を世間に知らしめるだけでなく、

創価学会によって苦しめられた人の心が和まされ癒やされる場所でもあった。

それだけにクロさんのブログが更新を終了されたのは残念だが、

ただ、ブログはそのまま公開され続けているようなので、

これからも創価学会に疑問や矛盾を抱いている人達や、

創価学会によって心に傷を負った人達の役に立ち続けて行く事だろう。

最後に、クロさんのブログはすでにコメント欄が閉じられている為、

挨拶のコメントを書き込めなかったので、

当ブログの記事で挨拶を書いておきたい。

クロさん、今まで長い間ブログの運営、お疲れ様でした。

そして、ありがとうございました。

いつまでも嫌われ続ける創価学会

「世界が創価を絶賛!」とか「創価は世界に広がっている」などと自画自賛し、

世界の人気者気取りでいる創価学会だが、

実際には創価学会は世間から嫌われている。

昔から今に至るまで嫌われ続けている。

著名人や識者・文化人が創価学会を賞賛したり支持したりしても、

それでも創価学会は世間から嫌われ続けている。

宗教家とは思えない罵詈雑言を吐く傲岸不遜な態度や、

世間に迷惑をかけても謝罪もする事もなく全て信者のせいにして正義面しているその傲慢さなど、

嫌われて当然な所業を続けているのだから、それは当たり前の事である。

日本最大の宗教団体として、日本の様々な分野に根を張って支配している創価学会だが、

これからも世間から嫌われ続けて行く事だろう。

 

 

 

 

威勢だけは良い創価学会

これまで創価学会は聖教新聞などで威勢の良い事ばかり言い続けてきた。

「21世紀の舞台!青年部が立ち上がった!!」

「広宣流布の全責任は我ら青年部が」

「全国で青年部が総立ちの大会」

「青年部が広宣流布目指して一千万拡大へ」

などなど、威勢だけは良いのだが、

実際はどうかと言えば、

今や座談会などでは青年部員はどこに行ったのか、

年寄りばかりの同じ顔ぶればかりが集まっている有り様であり、

年々、衰退し続けている現状にある。

最近では聖教新聞の配達も学会員の配達人が確保できず、

読売新聞販売所など一般紙の販売店に委託している地域も出てきているという。

このような現状を見れば、

聖教新聞などに書いてある威勢の良い大見出しがいかに現実離れしているただの言葉遊びであるかが判るというものだ。

釈尊が説いたように、この世は無常である。

いくら創価学会が一時期爆発的に勢力を拡大して社会を支配しているように見えても、

それがいつまでも続く事などあり得ない。

ましてや創価学会が永遠に不滅だなどという事もあり得ない。

創価学会のような邪悪な団体はやがて衰退してゆく運命にあるのだ。

 

 

 

創価学会にとっての「正義」とは何か

以前の記事にも書いたが、

創価学会はとにかく自分達こそ「正義」だと主張して憚らない。

では、創価学会の言う「正義」とは何なのか。

創価学会が言う「正義」とは、日蓮が主張していた「謗法」思想にある。

つまり、日蓮の思想こそ末法では最高の正法であり、

この日蓮の思想を最も正しく実践しているのが創価学会だと主張している訳である。

そして日蓮の思想に背く事が「謗法」、つまり正しい法に背く事であると主張している訳だ。

その「謗法」こそが最大の悪であり、

逆にその「謗法」を犯す事なく日蓮の思想を正しく実践する事が「正義」だと主張している訳なのだ。

だから、「謗法」を犯す事なく日蓮の思想を正しく実践している限り、

汚い罵詈雑言を吐こうが、毒の言葉で罵倒しようが、

暴力団まがいの事をしようが、場合によっては法律違反をしようが、

「正義」だという事になるらしいのだ。

つまり、謗法を犯す事なく、日蓮の思想を正しく実践してれば

たとえ一般的に仏法で「悪」とされている事を犯しても罪を許されると考えているらしいのだ。

即ち「謗法厳戒」が免罪符になって、

たとえ一般的に悪とされている事をしでかしても罪を許されると考えているという事だ。

だから創価学会は悪質商法行為をしようが犯罪行為をしようが、

厚顔無恥にも「創価学会こそ仏意仏勅の正義の教団だ」と豪語できるのである。

勿論、創価学会のその主張というのは単なる言い訳に過ぎず、

謗法厳戒を守っているから何をしても許されるなどという事はないのである。

第一に日蓮の思想が末法の正法だとか、日蓮の思想に背けば謗法になるなどというのはそもそもの仏教思想ではなく、後世に創作されたものでしかないのだから、

そんな思想を錦の御旗に掲げても何ら言い訳にもならない事は言うまでもない。

だから「日蓮仏法を最も正しく実践しているのが創価学会だ」とか

「謗法厳戒を正しく守っているのが創価学会だ」などと主張しても何ら正しさの根拠にならない事も言うまでもない事だ。

もしも、謗法が最大の悪であるという事や謗法厳戒こそ最大の正義だと本気で思っているとすれば、創価学会はカルトだと言えるし、

そんな事は信じてなくて、あくまでも言い訳にする為に掲げているだけだとすれば、

創価学会は宗教を装った営利企業であり、あるいは詐欺団体であると言えるだろう。

 

 

 

「謗法」を根本悪に定める創価学会の行状

創価学会と言えば、仏教を自称していても、

宗教団体・仏教団体とは思えないような下品で口汚い罵詈雑言や、

軍隊か暴力団かと思われるような荒々しさやガラの悪さで有名だが、

今回の記事では、創価学会の傲岸不遜な語り方や態度は何に基づいているのかを考えてみた。

勿論、「創価学会は宗教ではなく宗教を装った詐欺団体だからだ」とか

「創価学会はカルトだからだ」と一刀両断に言う事もできるが、

ただ、よく言われる「カルト」「宗教ビジネス」「詐欺団体」であっても、

内実はともかくとして、少なくとも表面上は宗教団体らしく、上品な言葉遣いとか気品のある態度を見せるものであるし、特に詐欺師ならなおの事、上辺だけでも宗教家や仏教者らしく振舞って見せるものである。

ところが、創価学会は見栄や体裁などお構いなしに、とことん汚い罵詈雑言や下品な罵倒の言葉を吐き散らし、

暴力団かと思われるようなガラの悪さも隠そうとはしないのである。

それは何故なのかという事について考えてみた。

その答えは機関誌の『大白蓮華』の中にあった。

2004年9月号の大白蓮華の「質問箱」というコーナーに

「仏法で説かれる身・口・意の三業のなかで最も重要なものは何ですか」という質問があり、

それに男子部教学部長が答えているのだが、

その中で、原始仏典(阿含経)の中の『テーラ・ガーター』にある言葉を引き、

まず、仏教思想としての身口意の三業についての一通りの説明を書いている。

つまり、身業は身体的な行ない。

口業は言葉による行為。

意業は感情や思考といった精神的行為。

という説明をし、

続けて、「仏法の業思想では人間の自由意思が強調されていて、

三業の中で意業が最も重視されている。

つまり、業(行為)の本質は行為する人の意思にある」から

意業が最も重要なのだと書いているのだが、

そこから、日蓮が迫害されたのは一般的な悪い行ないを為したからではなく、

「謗法」の故だからだと答えているのである。

そして、妙法に対する「不信」「軽信」といった謗法の意業が一切の罪業の根本悪であり、

その根本悪の意業を消していくために謗法の法師(日蓮正宗の僧侶の事か?)と戦い抜く折伏が重要なのだと結論づけしているのだが、

普通、仏教で言う「意業」による悪業とは、悪意・悪念・悪心・邪心など、悪の心を起こす思考の事を言うのだが、

創価学会では、そういった一般的な「悪い考え」よりも「謗法」つまり正しい教えを信じない心が最も悪いのだと決めつけているのだ。

そうして「謗法」の心こそ最も悪い行ないなのだと言っている訳である。

しかし、そもそも、「謗法」というものは、引用している原始仏典である阿含経にはなく、

あくまでも主に日蓮の思想にしかないものである。

つまり、本来の仏教では「謗法」など問題にしていないのである。

それを創価学会は「謗法」こそ最も悪い行ないであり、

「謗法厳戒」こそ最も重要な仏法の教えなのだと決めつけているのだ。

また、創価学会の日頃の言動を見れば、口汚い罵詈雑言は口業で悪業を造り、

ガラの悪い行為は身業で悪業を造ってしまう事くらい仏法者ならすぐ判る事だが、

この質問に答えている教学部長はそんな事は全く問題にもしていなくて、

ただひたすら「謗法」の意業こそ一切の罪業の根本悪なのだと言い切っているのだ。

この事を裏返して言えば、

謗法を犯さなければ、口汚い罵詈雑言や下品な罵倒の言葉を吐こうが、

ガラの悪い行為をしようが、全く構わないのだと言っている訳なのだ。

「謗法」という根本悪さえ犯さなければ

他の身口意の三業で悪を行なってしまっても悪にはならないのだと言いたいようなのだ。

どうやらそれが創価学会の「業思想」らしいのである。

だから、聖教新聞や創価新報などという、信者に読ませる為の自分達の機関紙にあれだけ下品な罵詈雑言を平気で掲載できるのであろうし、暴力団まがいの事でも平気でできるのであろう。

つまり、それが創価学会の思想となっているから、

汚い言葉を吐いても悪い事だとは思ってないし、

迷惑行為や犯罪行為さえ行なっても悪い事だとは考えてないのだ。

そのように考える事ができよう。

しかし、創価学会がそのように考えているからといって

実際もその通りとは限らない。

本来の仏教では、つまり釈尊の思想では、

例えば毒のある言葉を吐けばそれは自分に返ってくると説いているが、

創価学会がいくら「謗法厳戒」しているからどんな毒のある言葉を吐いても大丈夫だと思っていても大丈夫とは限らないのだ。

謗法思想というのは日蓮系や創価学会が言ってるだけの話なのだから、

それが真理真実とは言えないからだ。

いずれにしろ、創価学会の常軌を逸した言動は、

まともな思想によっては成り立たない考え方である事は確かだ。

 

 

 

 

自分の前でラッパを吹き鳴らす偽善者=創価学会

新約聖書の『マタイ伝福音書』に「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。

まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」

という有名な言葉がある。

要するに、善行を行なっても、人に見せる為、人に認められる為、見栄を張る為の善行なら、自分の前でラッパを吹く偽善者であるという意味で、そういう偽善の心で善行を行なうなというイエス・キリストの言葉なのだが、

創価学会は正に「自分の前でラッパを吹く偽善者」だと言えるだろう。

聖教新聞の第一面に、どこそこの国に図書を贈呈したという記事を誇らしげにデカデカと載せている記事をよく見るが、これなどは自分の前でラッパを吹いている姿だと言える。

創価学会は善行に限らず全てにおいて自己顕示欲が強く、

「世界の識者が創価を絶賛!」などと自画自賛記事も頻繁に大きく掲載して宣伝しているし、

池田名誉会長が世界中から名誉称号を受けたという記事も

頻繁に聖教新聞の第一面にこれ見よがしに誇らしげに掲載しており、

自分達を自慢する見栄や虚栄心の塊だと言えるだろう。

これ1つ見ても、創価学会首脳の連中が宗教家からほど遠い存在である事が判るというものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

商売を「戦い」にする創価学会

「闘争する宗教」創価学会は、何でも「戦い」とか「闘争」という言葉をつけているが、

金儲けにも「戦い」をつけて信者をこき使っている。

今や有名なのが「財務の戦い」という金集めだが、

それ以外にも、例えば、2000年の頃、実家のある地域では池田会長就任40周年の戦いとやらで、

「聖教新聞啓蒙の5倍の戦い」というのがあり、

幹部連中が実家の両親の所にやって来て「今、新聞啓蒙5倍の戦いをしているから親戚にも知り合いにもどんどん啓蒙してくれ」と言ってきたのだそうだ。

自分の父親は以前、ゲートボール仲間のある婦人に頼んで聖教新聞を購読してもらっていた事があったが(新聞代は自分の両親が支払っていた)、その後「もういりません」と断られてしまって以後は啓蒙する所もなくなり、

新聞啓蒙の指示が来たら1か月とか2か月の間、自腹で聖教新聞を2部3部と購読するようにしていたという。

結局、部外者に頼んでも新聞代を支払うのは殆どの場合、学会員自身なのだから、

部外者に啓蒙しようとしまいと支払うのは自分なので同じ事なのである。

それでその「新聞啓蒙5倍の戦い」も同じように自分の両親が5倍だからといって5部取らされてしまったという事だ。

これなどは「5倍の戦い」などと言ってるが、要するに聖教新聞代を5倍払わせる為の「戦い」なのであり、

あくまでも創価学会の金儲けなのである。

創価学会に取っては部外者が聖教新聞を購読しようとしまいとどうでもいいのであり、

学会員が部外者の代わりに多部数分支払えばそれで金儲けになるから創価学会に取ってはどちらでも良いのである。

そして、笑えるのが、

次の月に行なわれた記念座談会で、

「聖教新聞啓蒙5倍の戦い」が目標達成したという事で、

「大勝利で記念座談会を迎える事ができました!」と幹部が「勝利宣言」をしたというのだ。

「大勝利」と言っても、

結局自分の両親と同じように、学会員が自腹で5部支払ったというだけの話だろう。

どこが「大勝利」なのか。

結局、創価学会が5倍金儲けできて、学会員は自分で5倍支払って「大勝利!」と言って自己満足してるだけの話なのだ。

何ともバカバカしい話である。

創価学会ではこんなバカバカしい事がまかり通っているのであり、

自分の両親のようにバカバカしいと思いながらもそれに従っている信者もいるのだ。

これなども創価学会の笑える話ではあるのだが、身内がそういう目に遭っていては笑うに笑えない話である。

 

 

 

 

 

 

活動家とは学会の奴隷の異名

創価学会には様々な役職があるが、真面目に熱心に学会活動をしていると、

1人でいくつもの役職を背負わされる事になってしまう。

1つの地区なり支部内に熱心な活動家が何人もいるのならそれぞれに分担されるのでまだ良いのだが、

人材不足・活動家不足の地区や支部だと、1人の活動家が何もかも任されてしまう事になる。

創価学会は仏教を自称していても仏教の基本である「中道」がない所だから、

何もかも極端に偏ってしまうので、人材不足の地区や支部では1人で何もかも背負わされてしまう事になるのである。

とにかく、学会活動に熱心に頑張っている活動家には何もかも背負わせるのが創価学会なのだ。

その結果、学会活動の苛烈さやいくつもの役職をこなさなければならない過酷さの為に生活や家庭や仕事にも支障をきたして更には精神にも支障をきたして鬱病やノイローゼになって心を病んでしまう活動家も出てくる事になる。

このように、学会員の事など思いやる事もなくこき使うだけこき使ってやれと考えているのが創価学会の実態なのである。

創価学会は「法華経の為に命を捨てよ」と会員に向かって言っているが、

要するに「創価学会の為に命を捨てろ」という事なのだ。

「法華経の為に命を捨てよ」とは、学会の奴隷になれという事なのだ。

牧口価値論への考察

創価学会は元々は「創価教育学会」という名称で、教育者の団体として創立されており、

創立者の牧口常三郎初代会長が著わした『価値論』という哲学思想が基になっている。

「創価」という名称はその価値論の「価値創造」から取っているそうだが、

しかし、自分が学会員だった頃、その価値論を学んだ事はなかった。

創価学会も牧口初代会長の価値論を会員に学ばせようという気もなかったようで、

支部で男子部の集会の企画を話し合ってる時、自分が「価値論の勉強会をしてはどうか」と意見を言った所、

とある幹部から「今どき価値論なんか学ぶ時じゃない」と言われた事がある。

そもそも価値論というのは、価値の本質や価値と事実の関係、価値判断の基準などを扱う哲学の一部門なのだそうだが、

西洋哲学で価値論というと、ヴィンデルバントら新カント学派などが唱える「真・善・美」の価値体系が有名だ。

「真・善・美」とは認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美の事で、

人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。

つまり、「真」とは嘘・偽りのない、真実・誠意を意味し、

「善」とは善い事、道徳的に正しい事の意味を持ち、

「美」とは、美しく調和の取れた状態を表わし、

人間が生きる上での最も調和された最高の状態を表わす言葉として使われる。

それに対して牧口初代会長は「人生の目的は価値創造にある」という理念を唱え、

「真・善・美」の中の「真」の代わりに「利」を置く「利・善・美」の価値体系を主張した。

「真・善・美」という価値は人間に取って役に立つ価値基準ではなく、

「利」を中心に置いてこそ人間にとって有用であるという考えによるようだが、

そういう観点からすると、牧口初代会長の価値論はウィリアム・ジェイムズやジョン・デューイらのプラグマティズム(実用主義哲学)や、

幸福と利益を価値の標準とし、人生の主たる目的とするベンサムらの功利主義哲学に相通じるものがあると言える。

だからなのか、近年、聖教新聞に、アメリカのジョン・デューイ協会との交流がしばしば記事になっていたが、デューイのプラグマティズムや教育哲学との接点が創価学会にあったようだ。

それはともかく、牧口初代会長の「利・善・美」の価値論には哲学者の梅原猛氏が批判をしていたものだった。

「真」を外して代わりに「利」を掲げている事について、

次のように批判している。

 

[ここより引用]

真を価値の座からしりぞける牧口の理論は、

実践的な結果として、

真の価値を それ自身として求める人生態度を否定するということになる。

創価学会ではしき りに空理空論にふける学者への攻撃がなされるが、

利を尊ぶ創価学会は一見空 論に見えるものがいかに人間生活を変え、

いかに人間の幸福を増進せしめるか ということに対して

あまりに近視眼的であるかに見える。

この態度は後に論ず るように彼らの宗教的ドグマを真理追求の精神によってあくまでも問いつめて いく理論的徹底さを許さない原因ともなろうが、

今後人類はあくまでも科学的 な真理にもとづいて出来るだけ理性的に戦争をさけ、

人類全体を平和と繁栄の 方向に持って行くという方向をたどらねばならない以上、

価値の座から真を引 きおろした創価学会の価値学説は

世界の指導原理として好ましくないものと言 わねばなるまい。

[引用ここまで]

 

つまり人間に都合の良い利益をもたらす事を最上とする考え方を批判している訳だが、

確かに真理とはそれ自体、人間に利をもたらす事とは無関係に存在しているものであり、

真実なるものそれ自体を真理から外すのは、梅原氏の言う「近視眼的」な態度だと言えるだろう。

牧口初代会長はこの「利」をもたらす実践行として

日蓮正宗の信仰を選んでいるのだが、

なぜ、利をもたらすものが日蓮正宗の信仰になるのか。

日蓮正宗の現世利益的な信仰が利をもたらす実践行だと考えたのだと思われるが、

せっかく哲学的思考によって考え出したものを、

曼陀羅本尊を拝む事によって現世利益が得られるという迷信信仰へと堕してしまってるのが残念というか解せない部分だと思う。

創価教育学会から創価学会へと変わってから牧口価値論は前面に出さなくなったようだが、

それでも牧口価値論が最上として掲げる「利」が現在でも創価学会の理念となっているのは確かだ。

現世利益の功徳論や、貪欲な飽くなき利益追求の創価学会の姿は、

正に「利」を追求している姿だと言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「正義」の根拠がどこにもない創価学会

聖教新聞を始め創価学会の機関紙誌には何かにつけ「創価学会こそ正義」「学会こそ仏法正義の団体」「学会こそ仏意仏勅の正義の教団」など、自分達こそ正義だと主張する記事が満載なのであるが、

創価学会のどこが正義なのか。

日蓮仏法を正しく実践しているという正統性を言っているのだったら、

それは創価学会が勝手に解釈して言ってるだけで、日蓮仏法の正統だという根拠など何もないのである。

日蓮仏法の正統性どころか、その前に本来の仏教の正統性もない新興宗教なのにどこが正義なのか。

ましてやプロの宗教家でありながら自分達は折伏もしないで全て信者にやらせているような団体のどこが正義なのか。

そして自分達は宗教家としての使命である折伏布教もしないで寄付金は強欲に信者から搾り取っている団体のどこが正義なのか。

「我々こそ正義だ」と叫んでいても、

正義だという根拠はどこにもないのである。

「正義の教団」どころか創価学会こそ「悪の団体」だと言えるだろう。

創価学会批判における正論の必要性

同じ反創価ブログの中にも、

「創価学会批判について真正面からの正論を述べているアンチブログがあるが、

学会員もそんな事は判っているのである。そんな学会員に向かって正論を吐いても仕方がない」

といった意見を見る事があるのだが、

確かに、盲信者や狂信者に正論を述べても無駄ではあるだろう。

それは勿論判っているのである。

しかし、たとえ盲信・狂信の学会員に対して無駄ではあっても、

創価学会の何が間違っているのかという事をはっきり提示しておく必要はある。

その為の正論なのである。

同じ反創価ブログやサイトには、創価学会批判を面白おかしく書いている所もよく見かけるし、

それはそれで読者を惹きつける方途としては良いのだが、

ただ面白おかしいだけで終わってしまう恐れもあるのだ。

創価学会の問題というのはただ面白おかしい話題で終わるようなものではなく、

当事者からすれば深刻な問題なのであり、

それをただ面白い話題だけで終わらせてはいけないと思う。

面白おかしい反創価ブログやサイトはあっても良いが、

創価学会の何が問題なのか何が間違っているのかをはっきり提示しておく必要もあるのだ。

その為に真正面からの正論も必要なのである。

それに、創価学会には盲信者・狂信者だけでなく、

創価学会に矛盾や疑問を抱いている会員も多数存在しているのであり、

そのような会員には、

創価学会に対する批判を真正面からの正論として述べる事によって

創価学会からの呪縛から離れさせるという効果もあるのだ。

自分もかつて学会員だった頃は創価学会に矛盾や疑問を抱いていても、

仏教の知識に疎かった為、本来の仏教というものを知らず、

創価学会の何が間違っているのかも判らなかった為、

矛盾や疑問を抱きながらも創価学会に反論する事もできなかったのだ。

今でもそういう学会員は多数存在すると思われるので、

そのような学会員に向けて、創価学会の間違いを正論として述べておく必要はあると思う。

 

 

 

 

日本と海外で本仏を使い分ける創価学会

創価学会は「日蓮本仏論」を基に、日蓮を末法の本仏としている。

しかし海外の創価学会インターナショナル(SGI)では本仏は釈尊になっている。

自分は海外の創価学会の実情についてはよく知らなかったので、

長い間日本国内と同じくSGIでも当然日蓮が本仏だろうと思っていたのだが、

インターネットの情報によって、海外の創価学会では釈尊が本仏だという事を知った。

海外では本仏と言えば釈尊と認識されている為、

無理に日蓮を本仏だと主張すると布教ができないから釈迦本仏にしたのだろう。

創価学会の事だから「海外の人々に合わせた方便である」とか言い訳をするのだと思うが、

創価学会は仏教を利用した営利企業だから、

勢力拡大できそうなら日蓮本仏でも釈迦本仏でもどちらでも良いのだろう。

インターネットの情報として、そのうち創価学会は日本国内でも日蓮本仏から釈迦本仏に変えるような事が書かれてあるが、あながち嘘やでたらめとも言えない。

何しろ、数年前には、それまで創価学会の信仰の根本としてきた富士大石寺の大本尊を「受持の対象にはしない」と宣言し、それ以外の日蓮が造ったとされる本尊は皆拝んで功徳があるなどと言い出したのだから、

日蓮本仏論を引っ込めて釈迦本仏に変えるのも朝飯前かも知れないからだ。

いかにも創価学会らしい。

 

 

 

 

創価学会流お笑い本尊観

創価学会は日蓮正宗と抗争するようになってから、

日顕法主の名前の入った本尊は拝んでも功徳はないと言って、

日顕法主の本尊を持っている会員に、

創価学会が新たに印刷して造った本尊(江戸時代の日寛法主が書写したという本尊のコピー)と交換させていたものだ。

また、日顕法主の前の日達法主の名前の入った本尊は拝んで功徳があるからそのままで良いとも言っていて、

自分の両親の本尊は日達法主時代の本尊なので交換していない。

これなどは、創価学会と敵対した人物の名前が入ってるか入ってないかで功徳がないとかあるとか言ってる訳で、

何ともマンガチックな話である。

本来、仏教では、あらゆるこの世の執着から離れた境涯を仏というのである。

事物への執着から離れた仏が人間が造った板や紙にいつまでも宿っている事などないし、

もし本尊に未だにしがみ付いている生命なり魂なりがあるのなら、

それは仏ではなく、スピリチュアル思想で言う所の地縛霊・憑依霊の類という事になってしまうだろう。

誰の名前が入っていようと入っていまいと、人間が造った本尊などに仏が宿っている訳もなく、

拝んだから功徳があるという事もないのであり、

それは全く非科学的な迷信信仰でしかないのである。

広宣流布が達成されれば日本は北朝鮮そっくりの国になる

創価学会は「広宣流布」を目標に掲げている。

「広宣流布」とは、創価学会流に言えば、学会の思想が世界中に広まった時を言う。

昔は、世界に広宣流布が達成されたら、戦争も起きない平和な世界が実現し、

皆幸福になり、災害も犯罪も起きない理想社会になると、

今から思えば現実離れしたファンタジー物語のような事を幹部から聞かされたものだ。

今でこそそういうファンタジーのような話は言ってはいないようだが、

それでもそのうち必ず広宣流布は達成され、

理想社会が実現すると主張しているようだ。

しかし結論から言えば、広宣流布の実現は不可能だ。

まず、日蓮が生きていた鎌倉時代から令和時代の現代まで、

長い長い期間を経てもなお未だに広宣流布は達成されていないのである。

確かに第二次大戦後、創価学会は爆発的に勢力を拡大したが、

それもピークを過ぎて、今や新入会者も殆どいない状態であり、

会員数は減少の一途を辿っており、

それに加えて学会員であっても活動からも学会組織からも離れる会員が増加する一方であり、

これから先、広宣流布を達成できるような道筋は見えない現状にあるからだ。

それに対して創価学会は世界に広がっていると盛んに喧伝しているが、

世界ではキリスト教とイスラム教が大きな勢力を有しており、

これもまた創価学会が広宣流布できるような状態ではない。

創価学会は現在「世界広布新時代」という言葉を盛んに使って

いかにもこれから世界に広宣流布される時代に入ったかのような言い方をしているが、

言葉だけ、キャッチフレーズだけで、現実味は全くなく、

それこそ、ただの「夢物語」でしかないと言える。

そういう訳で、創価学会が広宣流布を達成するのは不可能ではあるが、

仮に創価学会が日本国内だけで広宣流布を達成できたとしたらどうなるか。

もし学会が日本だけで広宣流布を実現できたとしたら、

その時は理想社会が実現するどころか、北朝鮮そっくりの暗黒社会になってしまうだろう。

それは現在の創価学会の組織や姿を見れば一目瞭然だ。

以前にも書いたように、創価学会の組織は組織運営している学会本部上層部や本部職員、

それに芸能人の芸術部や作家などの文芸部といった特権階級と、

一般会員の下層階級とに分かれている。

そして、一般会員は信者獲得の為の折伏行を始めとして選挙戦での公明票獲得や聖教新聞の販売拡張など、

あらゆる活動を強要されてタダ働きさせられている上、

様々な名目で資産を搾取され続けている。

一般会員達は特権階級の中の本部上層部や本部職員の生活を支える為に

タダ働きをし資産まで差し出している状態なのだ。

日本で広宣流布が達成されたら、日本の国自体が創価学会と同じ組織構造になる事だろう。

そしてこの組織構造は北朝鮮によく似ているから、

北朝鮮そっくりの国家になってしまうという訳だ。

神格化された組織のトップを頂点にして、

特権階級が下層階級を支配して奴隷化して搾取し続けるという構造が同じであり、

創価学会が日本で広宣流布達成を実現したら、

幸福な理想社会どころか北朝鮮そっくりの地獄国家になってしまう事だろう。

とは言え、先にも書いた通り、学会が実際に広宣流布を達成する事は不可能だからそれを心配する必要もない。

それに、創価学会も本気で広宣流布達成を目指している訳ではなく、

広宣流布はあくまでも信者(一般会員)を創価学会に奉仕させる為の言い訳に過ぎないからだ。

「これから世界に広宣流布する時がきた。更に折伏に公明党の支持票獲得に頑張ろう!」と言って、

信者を奮起させて特権階級の奴隷として使い続ける事が目的なのだ。

その為の「広宣流布」というキャッチフレーズなのである。

 

 

 

カルトの定番-個人崇拝

創価学会擁護派は「創価学会は断じてカルトではない」と強調しているのだが、

創価学会にはカルトの特徴がいくつも顕われている。

カルトの特徴と言えば、まず第一にその教団指導者の個人崇拝が挙げられる。

カルトの定義を見てみると、「特定の人物や事物への礼賛,熱狂的な崇拝,さらにそういう熱狂者の集団」と書かれており、創価学会の池田大作名誉会長への個人崇拝がこれに当てはまる。

創価学会では宗祖の日蓮よりも池田名誉会長が格上のように扱われ、

「師弟不二」という言葉を強調する事によって名誉会長との師弟関係を重視させて従わせようとしている。

その1つの手法として、名誉会長の著作とされている小説『人間革命』『新・人間革命』では、

名誉会長自身が英雄として美化され、あるいは人間離れした超人か仏の境涯であるかのように神格化されて描かれており、

あくまでも創作でしかないのだが、

学会員に対しては「創価学会の真実の歴史」として教え込む事によって、

名誉会長のカリスマ性を更に高めている。

このようにカルトというのは、教義思想よりも、指導者のカリスマ性によって信者を心酔させて従わせようとするものであるが、それは教義思想の内容が不合理である為、教義思想だけでは論理的に信者を納得させる事が難しいからである。

創価学会は「世界一の生命哲学」だとか「世界最高の宗教界の王者」などと自画自賛しているのだが、

実際は仏教の歴史的事実を無視した作り話を基にしたり、

仏教思想と無関係な公明党支援の政治活動を「仏道修行」などと指導したり、

「財務」などの集金活動で多額の寄付金集めに執着したりと、

道理に外れた内容の多い自称仏教団体に過ぎず、

論理的に考えるならば信じるに足らない団体でしかない為、

論理よりも池田名誉会長というカリスマに心酔させて信者を従わせようとしているのであり、

その為の個人崇拝なのである。

しかしそのような創価学会には違和感や不信感を覚える信者も多く、

脱会者や脱会まで行かなくても活動や組織から離れる「非活者」が増え続けている。

いくら「創価学会はカルトではない」と反論していても、

創価学会の実態がカルトの特徴を顕わしているのだから、

もはや言い訳は通じない。

カルトを信じてついて行っても決して幸福にはなれないのだから、

今信じている信者であっても目が覚めざるを得ない状況になる事だろう。

 

 

 

 

道理がない創価学会 

創価学会は「仏法は道理なり」とよく強調する。

しかしそう言っている創価学会に全く道理がない。

「仏法は道理なり」というのは日蓮の御書にある言葉で、

創価学会の公式ホームページの『三証』のページでも、

「(大聖人が)「仏法と申すは道理なり」と仰せのように、仏法はあくまで道理を重んじます。道理に外れた主張は用いてはならないのです」と書いているのだが、

その創価学会に全く道理がないのである。

「道理に外れた主張は用いてはならないのです」と言うのなら、

まず、釈尊が説いてもいない法華経を依経にしてはならないだろう。

釈尊が説いた教えだから「正しい仏法」だと言えるのだ。

釈尊が説いてもいない法華経を「真実最高の仏教経典」などと主張するのは「道理に外れた主張」でしかない。

次に、公明党支援の選挙活動も信心・信仰とは無関係の政治活動でしかない。

そのようなものを「仏道修行」だと言って信者に活動させるのは道理に外れている。

また、聖教新聞を信者に必要以上に多部数購読させるのも道理に外れているし、

「財務に出せば出すほど何倍にもなって返ってくる」と言って高額寄付を煽るのも道理に外れている。

仏法にも布施の功徳は説かれているが、出せば出すほど何倍にもなって返ってくるなどという教えはない。

そのようなものは仏法ではなく、悪質商法のセールストークでしかない。

そして、創価学会は世界平和の実現を目指す団体なのだそうだが、

反戦平和と言いながら、信者に向かっては「闘争しろ!」「戦え!」などと闘争心を煽っており、

掲げている理念と相反する指導をしている。

闘争する所に平和など実現できる訳もないのだから、これも道理に外れている。

このように創価学会の主張は道理に外れているものばかりなのだ。

創価学会が「我々こそ道理に適っている」などと胸を張っても、

却って笑われるだけではないか。

 

 

 

 

分相応に供養・寄付をする事が中道

以前にも書いたが、仏教の基本理念は中道であり、

程良くバランスを保って生きる事が最も良い生き方だと説いている。

その中道の観点から考えれば、供養・布施・寄付についてはどうするべきか。

当然、中道の立場から考えれば、

分相応の金額を寄付する事がバランスの取れた中道としての寄付になるだろう。

分相応とは、各人の能力・地位に合った最も相応しい状態の事であり、

供養・布施や寄付をするのも自分の能力・地位・財力に合った金額を寄付すれば良いのである。

例えばマイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏は莫大な額の寄付を行なっているそうだが、

それでもそれを遥かに上回る莫大な金額の不労所得があるので、

莫大な額の寄付をしていても無理をする事もなくできているのであり、

ゲイツ氏にとってはそれが分相応な額の寄付になる訳である。

それに対して生活に余裕のない低所得者がゲイツ氏のような金額を寄付しようとしたら、たちまちにして生活は破綻してしまうだろう。

だからそれは分不相応でしかないのである。

仏教では、その人が出来る範囲での、決して無理をする事のない分相応の供養や布施をするようにと教えている。

というのも、分不相応の無理な金額の寄付をすると、

その後で惜しむ気持ちや後悔の念が出てきてしまい、

せっかくの供養や寄付も意味がなくなってしまうからだ。

だから後悔しなくてもよい無理のない分相応な額の供養や寄付をすれば良いのである。

それに対して、創価学会では「財務」という創価学会への寄付集めの際、

幹部達が「出し惜しみせず、出せるだけの精一杯の金額を寄付すれば何倍にもなって返ってくる」などと指導していて、

会員に無理してでも高額寄付をするよう強要している。

しかも、一律に一口1万円以上という最低金額まで決めており、

その上、財務の時期には座談会などで、

保険を解約してその解約返戻金を財務に寄付したら大功徳を得られたなどという体験談が美談として語られるなど、

無理をしてでも財務に寄付する事を同調圧力として押し付けている。

しかしこんなものは仏教の説く中道から逸脱した強欲な金集めでしかない。

貪欲な金集めをする創価学会側は我欲に執着して餓鬼界という低俗な状態に堕ち、

無理して高額寄付する学会員も分不相応な高額寄付をする事により生活に困窮したり破綻したりして苦の状態に陥ってしまうだけなのだ。

また、功徳善根を積むという観点から考えれば、歳末助け合いの募金とか社会福祉協議会の募金とか赤い羽根共同募金とか、本当に必要とされている所に寄付してこそ功徳善根を積む事ができるのであるし、本当に供養するに値する所に供養してこそ功徳善根を積む事ができるのである。

周知のように、創価学会は会員から集めている莫大な寄付金や事業の収益で本部上層部はかつて高額納税者に名を連ねていたほどの資産家揃いであり、宗教法人としての創価学会にも有り余るほどの資産があるのだ。

そんな大金持ちの団体に寄付しても功徳善根など積む事ができないのは当然だ。

しかも悪辣な手法で信者を脅してタダでこき使った上に強欲に金集めする団体が果たして供養するに値するだろうか。少し考えれば判る事だ。

何事も中道から外れている創価学会は寄付に関しても中道から外れて我欲に偏っているのであり、無理な寄付をする学会員も更に苦しみに堕ちてしまのである。

これはもはや仏教や宗教ではなく、宗教ビジネスや商売でしかないのだ。

 

 

現代社会でも通用する釈尊の教え

前回の記事にも書いたが、

釈尊の思想は創価学会が言ってるような「現代では死んだ法」などではなく、

現代においても通用する真理である。

勿論、現代社会で釈尊と全く同じ生き方はできないが、

その核心となる部分は現代でも通用するのは言うまでもない。

釈尊の教えの中核となるのは中道の思想である。

その中道の具体的な行法として八正道を説いている。

八正道は出家者の為の修行法ではあるが、

一般在家者でも行なう事ができる行法だ。

八正道は簡単に書けば以下の通り。

①正見…正しく見る

②正思…正しく思う

③正語…正しく語る

④正業…正しく行動する

⑤正命…正しく生活する

⑥正精進…正しく努力する

⑦正念…正しく念を向ける

⑧正定…正しく瞑想する

八正道の正しさの基準になるのが中道であり、

中道の物差しで自分の思考と言動が極端に偏っていないかチェックするのである。

八正道は古代インド仏教の修行法であったと言っても

現代の一般在家者でもできる事である。

勿論、真に解脱し涅槃の境地に入る為には釈迦時代の出家修行者のように、

俗世間から離れて修行に専念する必要はあると思うが、

出家修行者とまで行かなくても、少しでも自分の心の境地を高める為に、

八正道を日々の生活の中で実践する事は不可能ではないだろう。

というより、この八正道にしても中道にしても、

普通、人が無意識に行なっている事でもあると思う。

自分もそうだが、人生では何らかの失敗をするものである。

そんな時、人は普通、自分の言動を省みて後悔したり反省したりするものであり、

失敗しては反省して行き過ぎなどを軌道修正しながら生きていくものである。

それは意識するしないに関わらず、知らず知らずに中道の生き方をしていると考える事もできるのだ。

勿論、それを修行として意識して行なっている訳ではないので、

出家修行者のように解脱する所までは行かないにしても、

自分の身口意の三業について極端に行き過ぎた所を是正しようとするものであり、

それがつまり中道の物差しによる軌道修正になるのではないかと思えるのである。

そういう観点から見れば、現代の一般在家者でも、

日頃の自分の言動に意識を向け、自己の内面へと向かう為に瞑想も取り入れる事によって中道と八正道を日常生活の中でも行なう事ができると思えるのである。

いずれにしても、釈尊の教えとその具体的な修行法は

古代インドの古臭い遺物などではなく、

現代社会でも通用するものであり、

それどころか、形骸信仰と迷信信仰化された現代宗教よりも現代的ではないかとさえ思える。

特に、創価学会が主張しているような、曼陀羅本尊に題目を唱えていれば自然に全て良くなるなどというような事はあり得ないし、ましてや公明党支援の票集めをしたからといって人間革命できるなどという事もあり得る訳がないのだ。

そんな迷信じみた無駄な苦行をするよりも釈尊の八正道を実践した方が遥かに役に立つのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

釈尊の思想は現代にも通用する真理である

「釈迦の法はもはや死んだ法だ」

「釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない」

などと釈尊を貶し、

「われわれは釈迦仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」

「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立たないしろものである。これを使用するから生活に破錠をきたすのは当然である。」

等々と滅茶苦茶な暴論を吐き、

末法では本仏・日蓮の教えに依らなければ幸福になれないと主張している創価学会だが、

そもそも末法というものは後世の創作であって釈尊が説いたものではないし、

日蓮本仏論も同じく後世の作り話でしかない。

真理とは途中で変わってしまうようなものではなく、

普遍的にして変わる事がないからこそ真理なのである。

それ故に、釈尊が説いた法は今でも通用するものである事に変わりはないのだ。

勿論、時代性による制約や変化というものはある。

現代において、釈尊在世時と全く同じように出家生活ができるかというと、

それは無理な面があるだろう。

例えば、戒律については、釈尊は入滅前に、

重要ではない些末な戒律については変更しても構わないと語っていたという。

要するに、根本的なものではないならば、

その時代に即した戒律にすれば良いという教えであった訳で、

根本が変わってないならば、些末な事を変更するのは構わないという事なのだ。

だから、釈尊時代の戒律をそのまま全て守る必要もないのは当然だし、

釈尊在世時と寸分違わぬ出家生活をしなければならないという事もない訳である。

しかし、些末な事は変えても、根本を変えては意味がない。

現代の日本仏教は釈尊が説いた仏法とは大きくかけ離れてはいるが、

それでも、その根本には辛うじて釈尊の教えの核心が続いているから、

自分は日本の伝統仏教は仏法と認めているのだ。

しかし創価学会はそうではない。

創価学会は仏法の根本を変えてしまっている。

何を変えてしまっているかと言うと、

まず、仏法の説く「中道」を外して極端に偏っている。

創価学会の学会活動なるものは中道から外れて苦行に偏っているものであり、

ただ苦しいだけであって、解脱も涅槃の境地も幸福も実現できないものでしかない。

次に、「この本尊に祈れば何でも願いが叶う」とか

「財務に出せば出すほど何倍にもなって返ってくる」などと、

現世利益の誇大広告で信者の欲望を煽り煩悩を肥大させる事ばかり言っているが、

仏法は本来、現世利益の教えではなく、

過度の欲望への執着から離れる事によって苦を克服するという教えなのであり、

創価学会の現世利益論は逆に信者に欲への執着をそそのかし、

却って苦しみを増大させるだけでしかないものだ。

また、仏法は闘争する事、戦う事、争う事を禁じ戒めている。

ところが創価学会は「仏法は勝負なり」とか「闘争する事が仏法だ」「大闘争の中に大功徳がある」「仏法は永遠に闘争」などと勝手な定義を立て、「折伏闘争」「題目闘争」などと闘争、争い、戦いを全面に押し出し、

「闘争しろ!」「戦え!」「戦わざる者は去れ!」などと信者の闘争心を煽り立てている。

こんなものは仏法ではない。敢えて名づけるならば「世界最低の仏教教団」若しくは「阿修羅教」である。

いくら時代が変わったからといって、その根本を変えてしまったら仏法ではないのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

表と裏とで教えが違う創価学会の教義②

前回の記事で釈尊の教えには出家者向けと在家者向けとがあると書いたが、

それはあくまでも出家者と在家者とでは生活の仕方が違う為であり、

それぞれの生活に合わせて教えが違っていたという事を書いたのだが、

それに対して、創価学会の場合は、主に部外者向けと一般会員向けと、

謂わば、表と裏の2種類の教えがある。

部外者向けの教えというのはつまり表向きの教義という事で、

創価学会の表看板として、日蓮仏法による信心と反戦平和活動を掲げている。

日蓮仏法の信心の実践としては勤行・唱題行がメインの行で、

後は座談会や本部幹部会視聴や支部総会などのいくつかの会合に参加するという程度の内容になっていて、

題目を唱えたり会合にいくつか参加する程度で福運が積まれて功徳が得られると宣伝している訳だが、

学会内部の特に一般会員向けには、勤行唱題行や会合にたまに参加する程度では福運を積む事はできず功徳もなく人間革命もできないとし、「末法の正しい仏法の実践」として「学会活動」というものを実践しなければならないと指導している。

その学会活動というのは、まず信者を増やすための折伏行に、

公明党の支持票を獲得したり遊説に参加するなどの公明党支援の選挙活動に、

聖教新聞の販売拡張をする新聞啓蒙活動と聖教新聞の配達・集金業務活動、

創価学会への寄付である「財務」を集める為の「財務の戦い」という集金活動、

その他にも役職者となったら自分の部員を会合に連れ出したり、

会合の内容を企画したりするなど、様々な組織活動がある。

創価学会はそれらの学会活動を実践すると福運が積まれて大功徳を得られるとし、

特に創価学会への寄付である「財務」に高額の寄付をすればするほど大福運に包まれ、

これに勝る功徳はないと指導し、

更には「財務」に出し惜しみをすると不幸になると指導している。

しかし公明党支援の選挙活動も「財務」も創価学会の公式ホームページには掲載されておらず、

あくまでも会合や自宅訪問等での幹部指導によるものが多く、

文書として残さない内容である為、「裏の教義」と言えるものである。

その「裏の教義」となっているものを見れば判る通り、

それらは一般会員が行なう必要のないものであったり、

表看板の日蓮仏法とは関係のない、創価学会の金儲けや権力獲得の為の活動であったりするものばかりだ。

まず折伏行という布教伝道活動はプロの宗教家であり職業幹部である学会上層部や本部職員が行なうべきものだ。

一般信者が行なうべきものではない。

聖教新聞の配達や集金業務も学会運営側の本部職員が行なうべきものだ。

一般信者が行なうべきものではない。

公明党支援の選挙活動は政治活動であって、信心や信仰そのものとは関係のないものだ。

会員から寄付を集める「財務」の集金活動も学会運営側の本部職員が行なうべきものであるし、

第一に寄付とか供養というものは信者の心に任せるべきものであり、

必死になって高額の寄付を煽ったり強要したりするべきものではない。

そのようなものは供養でも寄付でもなく「催促」であり、あるいは「強要」でしかないのだ。

要するに、創価学会が表に出せない裏の教義は、

本来の信心・信仰とは無関係な創価学会の金儲けや権力獲得の為の活動でしかないものばかりだ。

だから学会内部の裏の教義にしているのである。

また、表向きは「反戦平和」を掲げているが、

内部会員向けには「闘争しろ!」「戦え!」などと闘争本能を煽る事ばかり指導している。

このように創価学会は表と裏とでは大きな違いがあり、

これらの点を見ても、創価学会がまともな宗教団体ではない事は一目瞭然である。

 

 

 

 

表と裏とで教えが違う創価学会の教義①

釈尊の説法には出家者に対する教えと在家者に対する教えに区別があるという事が判っている。

つまり、釈尊の教えには出家者向けの教えと在家者向けの教えがある。

出家者向けには、世俗の執着から離れ、解脱を目指す修行に専念する為に、

世俗の仕事を禁止し、身を慎み規律ある生活をする為に戒律を守り、

解脱の為の具体的な修行法として八正道を行じ瞑想を行なうなどの教えが説かれた。

一般在家信者向けには、五戒(5つの生活規範)を守り、特定の日に出家者の生活にならって一日だけ8つの生活規則に従う「八斎戒(はっさいかい)」を守り、出家者から教えを受けて生活の指針とし、その上で社会の一般的な道徳観である父母への孝行と家族や眷属へ愛情を注ぎ、在家者として財を成し、出家者に布施を行なうことによって功徳善根を積んで天界に生まれる事(生天)を目指すという教えが説かれた。

では、なぜ出家者向けの教えと在家者向けの教えがあるのか。

それは差別というものではなく、出家者と在家者では生活様式が違うからである。

解脱を目指す為には家族も捨て世俗の仕事も捨て財産も捨て世俗の欲への執着から離れなければならない。その為に出家するのである。

しかし誰でもが家族も家庭も仕事も財産も捨てて出家できる訳ではない。

その為に、出家者向けの教えと在家者向けの教えが説かれたのである。

出家者は解脱を目指す生活に徹する為、家族を捨てて出家した身なのであり、

あらゆる執着から離れる為に世俗の仕事からも離れて頭陀行(ずだぎょう(托鉢・乞食行の事))によって信者の家を廻り、生活に必要な食べ物などを乞い、厳しい戒律を守って身を慎み、簡素で清貧な生活をする事によって煩悩を減らす修行に専念していたのだが、

このような生き方は一般在家者に実践しろと言っても無理があるだろう。

そこで釈尊は一般在家者向けとして、5つの生活規範(五戒)を守り、道徳的な生活をし、出家者に食べ物などの布施をする事によって功徳善根を積んで来世は天界に生まれるようにという教えを説いたのだ。

これは差別というよりも、厳しい解脱の為の修行ができない在家者に配慮した教えだと言えるだろう。

解脱する為にはあらゆる世俗への執着から離れなければならないが、

それができない在家者には、功徳善根を積む事によってせめて天界に生まれる事を目指すようにと説いたのだ。

だから、出家者と在家者とでは教えの内容が違うのである。

ちなみに、戒律と普通言っているが、戒と律は別になっていて、

戒は罰則規定のない規則であり、その為、在家者には罰則のない戒が授けられたのだ。

それに対して律は出家者だけが守るべきものであり、

これを破ると、教団から追放されて在家者に戻されるなどの罰則規定がある。

以上のように、釈尊の教えには出家者向けと在家者向けとでは違いがあるのは差別ではなく、

あくまでも生活様式の違いへの配慮の為であった事が判った。

では、部外者や世間に向けて公表している表向きの教義と

学会内部のその中でも一般会員に向けた裏側の教義に違いがある創価学会はどうだろうか。

次の記事でその点を考察していきたい。

 

 

 

煩悩を増大させる創価学会の犠牲者

『創価学会批評ブログ』に、婦人部員と車で買い物に行った時、

婦人部員が荷物を車内に置いて用足しに車から離れている隙に

その荷物のバッグから銀行キャッシュカードを取り出して、

近くの銀行で金を勝手に引き出して借金返済に使ってしまったというY婦人部長の記事を書いた事があるが、

その記事では文章が長くなるのでそれ以上詳しくは書かなかったが、

あの記事では、なぜY婦人部長が婦人部員のキャッシュカードの暗証番号を知っていたのか疑問に思われたのではないかと思うので、

ここにその点を補足して書いておきたい。

その婦人部員を仮にSさんとしておくが、Sさんは脚腰が悪くあまり自由に動けないので、

Y婦人部長に家の中の家事とか買い物など外出時の車での送り迎えを頼んで、

家政婦としてお金を払っていたのだそうで、

Y婦人部長も子供2人を大学に出していて、しかも財務にも多額の寄付をしていて、

夫が会社ではかなり上の役職に就いていて高給取りの身であっても、

それでも家計が火の車の状態で借金もしていたので少しでも金が必要であったからその話に乗って

家政婦を引き受けていたのだそうだ。

それでSさんは銀行で出金や入金もY婦人部長に任せていたので、

キャッシュカードの暗証番号も信用して教えていたのだそうだ。

信用されていたY婦人部長だが、借金で切羽詰まっていた為に出来心で金を引き出して

借金返済に使ってしまったのだそうだ。

このY婦人部長、夫は地区部長、自身も地区婦人部長という役職者である為、

毎年、財務に高額の寄付をしていて、

座談会などでもそれを自慢して発表していたそうで、

また「今どき子供は大学くらい出しとかないといけない」と見栄も張っていたようで、

それで子供2人とも大学に通わせていたので金に困っていたのだそうだ。

「創価学会で信心すれば何でも願いが叶う」とか「財務に出せば出すほど何倍にもなって返ってくる」などと信者の欲望願望を煽り立てている創価学会で役職者をしていると、

このY婦人部長のように見栄も張るようになり功徳欲しさにいくらでも金を出してしまうようになってしまうのだ。

学会員になっていなければ人の金を盗むような事もなかっただろうにと思われる。

そういう意味で、Y婦人部長も創価学会の犠牲者の1人だと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

「信心の継承」もできなくなる創価学会

今の時代、創価学会の新たな入信者は殆どいない状態だ。

戦後の経済的豊かさを求める時代も終わり、

創価学会が掲げる物質的豊かさを追求する現世利益の功徳論でも人の興味を惹かなくなっている。

何よりも、創価学会の実態もインターネットでの情報によって明らかにされていて、

創価学会は胡散臭い宗教の代名詞とさえなっているのだし、

それに、同じくインターネットによって仏教の知識が簡単に知られるようになった今、

創価学会が掲げている「世界最高の正法」などもインチキでしかないという事も判明しているのだから、

創価学会に入りたいと思う者などいないのは当然だ。

たまに新入会者がいても仏教の知識に疎い高齢者くらいのもので、

若い新入会者は殆ど見込めない状態となっている。

そんな状態だから、創価学会としては親から子へそして孫へと、

同じ家族、一族内での信心の継承を何が何でも成功させたいのである。

だから聖教新聞を見ると「信心の継承」とか「未来部を育てよう」といった記事がよく掲載されているのもその為なのだ。

しかしその頼みの綱の2世3世あるいは4世といった子供や孫などへの信心の継承も減り続けているのが現状だ。

2世3世の子供や孫達も馬鹿ではないのだから、親や祖父母がやってたからといって、

何も考えずに創価学会の信心を続ける訳もない。

ましてや今やインターネットによって仏教の知識も創価学会に関する情報も簡単に手に入るのだから、

「世界最高の宗教界の王者」とか「日蓮仏法の正しい実践団体」などと豪語していても、

全部嘘である事は知られてしまっているのだ。

たとえば、自分が『創価学会批評ブログ』の記事に書いた事のあるS大B長(現在の地区部長)は

いわゆる「強盛な信心」で学会活動に寝る間も惜しんで邁進し、

公明党議員になって間もなく癌にかかって亡くなってしまったが、

その子供達はその「強盛な信心」を受け継いで行ったのかというと、

まず長男は父親の死後、しばらくは学会活動を熱心に行なっていたそうだが、

しばらくすると学会活動からも組織からも離れてゆき、

今では創価学会とは全く関わっていないのだそうだ。

また、長女の方は、同じく父親の死後、高校卒業後しばらくして遠方に嫁いでいったそうだが、

嫁ぎ先は創価学会部外者だったので、本人も学会の信心から遠ざかり、

今では創価学会から完全に離れてしまっているのだそうで、

あれほど創価学会の熱心な信心活動をしていた父親の意志を継ぐ事もなく、

信心の継承は途絶えてしまっているのである(母親は早くに亡くなっているので、子供達が学会を継承しなかったらそこで信心は断絶となる)。

親がどれほど創価学会を盲信狂信していようとも、どんなに熱心に学会活動していようとも、

子供も同じく熱心に活動をするとは限らない。

却って親の盲信狂信ぶりを見てきた分、嫌気をさして離れていくのが当然ではないか。

結局、創価学会は衰退してゆく運命にあるのは間違いないのである。

「強欲不知足」の創価学会大幹部

仏教には「少欲知足」という言葉がある。

「欲を少なくし、足るを知る」という意味で、

限りない我欲を少なくして、今ある状態に満足する事をいう。

仏教に限らず殆どの宗教でも我欲を抑制し質素な生活をする事を勧めているが、

その少欲知足の生活は一般信者は勿論だが、

特に信仰生活に徹して生きる出家者や聖職者などのプロの宗教家が目指すべき生き方なのだ。

古来から釈尊やイエス・キリストを始め、多くの宗教家は世俗の欲を捨てて

少欲知足の生活に生きてきたのだが、

では、「世界最高の仏法」を自負する創価学会はどうかというと、

財務・広布基金など創価学会への寄付金集めの際には、

とにかく精一杯の額の寄付をすると福運が積めて大功徳を得る事ができると

会合や家庭訪問等で幹部が盛んに指導をしており、

しかも、それだけに止まらず、「財務などに出し惜しみすると不幸な目に遭う」と脅迫までしている有り様だ。

本来、供養にしろ寄付にしろ金額に決まりはなく、どれだけ供養するか寄付するかは寄付する側の自由に任されるべきものなのだ。

ところが創価学会は財務は一口1万円以上から無制限とか、

出し惜しみすると不幸になるなどと強欲に凝り固まっている有り様なのだ。

近頃は公表されなくなったが、数年前まで高額納税者が公表されていて、

その高額納税者に池田名誉会長を始め創価学会の上層部大幹部達が名を連ねていたものだった。

我欲を捨てて信仰生活に徹するべきプロの宗教家が我欲のままに強欲に生きているのである。

正に学会大幹部は「強欲にして足るを知らず」そのままの生き方である。

創価学会では普通の宗教とは逆で、

信者が「少欲知足」の生活で清貧を強いられ、

プロの宗教家が「強欲不知足」で贅沢三昧の生活をするようになっているのである。

 

 

 

 

都合の悪い証拠を残さない創価学会

創価学会の表向きの教義は日蓮の思想を信じて行じてゆく事であり、

具体的には曼陀羅本尊に法華経の方便品第二と如来寿量品第十六を唱える勤行と、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行が基本で、

後は本部幹部会の視聴、座談会や支部総会などの会合に参加する事くらいになっているが(創価学会の公式ホームページによる)、

一般会員の場合、実際には、

信者を増やす折伏行や選挙戦における公明党の票集めなどの選挙活動、

聖教新聞の配達や外部への啓蒙活動という名の販売拡張(外部に販売できなければ自分で多部数を購読させられる),

それに創価学会の金集めとして有名な財務活動(できるだけ多くの財務を集めるよう強要する為に「財務の戦い」と創価学会では称している)、

その他、様々な会合や活動がある。

表向きの信心活動を「表」の教義とするなら、

学会内部の一般会員に向けた活動は「裏」の教義と言えるだろう。

一般会員は新入信者の間こそ表の教義だけで済むが、

会合によく参加するようになると、裏の教義を押し付けられるようになり、

仕事も家庭も生活も犠牲にして創価学会に尽くさなければならなくなる。

要するに、裏の教義は一般会員を創価学会に尽くさせる為のマニュアルとなっているのだ。

そこで創価学会は、その学会にとって都合の悪い教義や活動については証拠を残さないようにしているのである。

まず、聖教新聞には選挙戦については一切具体的な書き方をしない。

一応「政教分離」の体裁を取っているので、信心の為の機関紙には公明党支援の選挙選については書けないからであるが、

しかし、選挙期間中は選挙戦を思わせるような書き方をしており、

「断じて勝て!」とか「どこまでも勝ち抜け!」「勝って勝って勝ちまくれ!」などと、選挙戦を思わせる文章を書き立てている。

外部者が見ても何の事か判らないが、学会内部の会員が見れば「選挙戦で勝て」とハッパをかけられているという事が判るのである。

公式ホームページにも日蓮の思想などを中心に書いていて、

いかにも日蓮の思想に則って信心活動をしている団体であるかのように見せかけており、

選挙戦についても財務についても全く掲載されていない。

要するに、創価学会に都合の悪い事は全て証拠を残さないようにしているのである。

財務でも、会合や訪問での幹部指導で「精一杯の額を出せば出すほどその何倍にもなって返ってくる」などという指導がなされており、

中には「出し惜しみすると不幸になる」と脅す幹部もいる。

しかし、そういう事は全て、現場の末端幹部が言ってるだけで、

聖教新聞や大白蓮華などの機関紙誌は勿論、公式ホームページにも一切書いていない。

実際は学会首脳部辺りからそういう指導が下へと下りてきてるはずだが、

そこを取り上げられて批判されても、「それは末端の役職者が勝手に言ってるだけであり、創価学会はそういう指導は一切していない」といつものように責任逃れができるようにしているのだ。

このように用意周到に証拠を残さないようにしている所を見れば、

インターネット上で言われている「創価学会は最初から宗教団体ではなく詐欺団体だったのだ」という事が確かに当てはまる。

いずれにしろ、創価学会がまともな宗教団体でない事は確かな事だ。

 

 

 

 

成果を上げる事が「信心がある」という事

創価学会の諸活動においては、有能さが求められる。

折伏にしても選挙戦での公明党の票集めにしても聖教新聞購読売り上げにしても会合への参加者連れ出しにしても、全て成果を上げている有能な活動家は「信心がある」と見なされる。

数字による成果を上げる=有能=信心がある

という訳だ。

例えば相手本位に考えて強引な方法を用いないで誠実に折伏している為に成果を上げられないという活動家は「信心が足りない」「信心がない」と見なされる。

そして、成果を上げられない役職者は上の幹部から吊るし上げられ罵倒される。

どういう手を使ってでも折伏の成果を上げる活動家が「信心がある」と見なされるから、当然、強引な折伏や騙し討ちのような方法で入会させる活動家が増えるのである。

近頃はどうか知らないが、自分が学会員だった頃は、

折伏戦の時も、選挙戦の時も、

拠点の壁に活動家の成果グラフが張り出されていて、

誰が何人折伏したかとかどれだけF票を獲得したかという事が

棒グラフに書かれていたものだった。

そのようにして学会は活動家に成果を競わせていたのだが、

信心や信仰だと言いながら、

その実、実態は企業の営業活動と全く同じなのだ。

信者は活動家という営業部員なのである。

これも、創価学会は「成果ありき」だからであり、「人を救う為の宗教」ではなく、収益を上げる事が目的の企業だからである。

 

 

 

学会活動=苦行

「釈迦仏法では何度も何度も生まれ変わって修行を続けるという歴劫修行りゃっこうしゅぎょう)によってやっと成仏できたのが、日蓮仏法では、本尊に題目を唱えるだけで簡単に即身成仏ができる」というのが創価学会が折伏する時の売りの言葉だった。

近頃はこういう言い方はしていないのかも知れないが、

今も昔も、創価学会で信心すると簡単に成仏の境涯になれるとか、

厳しい修行や苦行をしなくてもすぐに幸福になれるというのが創価学会の売りになっているのは変わらない。

しかし、売りの言葉とは逆に、入会して信心活動を始めると、

「本尊に題目を唱えるだけの簡単な仏道修行」では終わらないのが創価学会なのだ。

まず折伏して信者を増やさなければならない。

選挙戦では公明党の支持票を集めなければならない。

聖教新聞を部外者に販売して売り上げを上げなければならない。

聖教新聞を部外者に販売できなければ自分で多部数購読しなければならない。

役職を付けられたら、会合に自分の部員を連れ出さなければならない。

同じく会合に友人知人の新来者を連れてこなければならない。

役職者になると、折伏の成果や選挙での公明票集めの成果などを上の幹部から厳しく問われ追及され吊るし上げられ罵倒される事になる。

更に、財務などの創価学会への寄付では多額の寄付を求められる。

などなど、様々な活動に引っ張り出され、仕事も家庭も生活も犠牲にして創価学会の活動に没頭しなければならなくなる。

要するに、学会活動というのは無理をしてでも頑張らなければならないのである。

これは「簡単な修行」どころの話ではなく、もはや釈尊が戒めていた「苦行」といえるものでしかない。

実際、折伏や公明票集めなどのノルマを達成できないと罵倒される為、

ノイローゼになったり鬱病になったりする活動家や役職者が続出している有り様だ。

これは苦行以外の何物でもない。

釈尊は苦楽の両極端を捨てて中道の生き方をしなければ解脱できない、涅槃の境地に入れないと教えている。

「楽」のエサで信者を釣って、その実、「苦行」を強いているのが創価学会の実態なのである。

釈尊が「苦行では悟れない解脱できない涅槃の境地に入れない」と言っていた通りで、創価学会の苦行を続けてもただ苦しいだけで決して幸福にはなれない。

 

 

 

 

何の裏付けもない「世界一の生命哲学」

創価学会が「世界一の生命哲学」だと自慢している思想の中身を見てみると、

「南無妙法蓮華経」という宇宙の根本法則を具現化したものが創価学会の曼陀羅本尊であり、この曼陀羅本尊に「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えると

宇宙根源の法則と合致して崩れる事のない幸福な人生を築けるのだという。

創価学会はこれを「道理に適った教え」だと自慢しているのだが、

『三証』の記事でも書いたように、この主張には全く道理というものがないのである。

『日蓮本仏論』によって日蓮を末法の本仏だと主張し、

歴史上では仏法を最初に説いたのは釈尊だが、久遠元初の大昔に釈尊に南無妙法蓮華経を授けて成仏させたのが日蓮であるから日蓮こそ究極の根本的な本仏であり、まず釈尊が本仏日蓮の露払いとして先にこの世に出現して法を説いたのだと主張したり、

竜樹・天親・天台・伝教といった末法以前の人師・論師達も実は南無妙法蓮華経が宇宙根源の法である事を悟っていたが、まだ末法時代が到来していない故に、その法を説く時機ではないので、衆生に向かっては説かず、密かに自分1人で南無妙法蓮華経の題目を唱えていたのだと主張したり、

末法という悪が充満する世の中では釈尊等のような劣った仏(迹仏)では衆生を救えないので、本仏たる日蓮がこの世に出現して法を説いたのだとか主張しているのだが、

これらの主張を裏付ける根拠は何もなく、仏教経典にはそんな事は一文字も書かれてはいないのである。

竜樹も天親も天台智顗も伝教大師最澄等もそれぞれ著作を書き残しているが、

それら著作のどこにも「実は南無妙法蓮華経が宇宙根源の法である」とか

「私は実は密かに法華経の題目を唱えている」などとはこれまた一文字も書かれてはいないのだ。

日蓮が釈尊に法華経を授けたとか、竜樹等の人師・論師達が法華経の題目を唱えていたなどという事実を確認する為には、我々がタイムマシンでその時代に行って確認して来なければ、それを事実として立証する事はできないのだ。

このように、創価学会が主張している「世界一の生命哲学」なるものは

何の根拠もない戯言でしかないという事なのである。

なぜ創価学会には芸能人が多いのか

芸能界には学会員が多いという。

自分が学会員だった頃は、芸能人の学会員はチラホラとしか知らなかったが、

特にインターネットが普及してからは芸能人の学会員情報はよく知られるようになったようだ。

ただ、インターネット情報は偽情報も多いので、全てが正しいという訳ではないが、有名な芸能人でも学会員である事が確定されていて、

意外な有名芸能人が学会員だったと知るようになっている。

自分が学会員だった頃は、髪型や服装についての規定が厳しかったし、

仕事も生活も犠牲にするような学会活動に従事しなければならないので、

とても芸能人にはできないだろうと思っていたものだった。

ところが、今では意外な顔ぶれの有名人も多く入会しているという。

昔ならそれが不思議に思う事ではあったが、

創価学会の組織構造が判ってからは、それはそうかも知れないと思えるようになった。

それは創価学会は特権階級と下層階級に分かれているからである。

学会活動に追い立てられ、資産も搾り取られるのは下層階級としての一般会員なのである。一般会員は一般社会人という事になる。

それに対して、特権階級は運営側の上層部及び本部職員だけでなく、

芸能人や作家・文筆家など、特殊な才能や技能の職業をしている学会員も含まれるのだ。

なぜなら、芸能人や作家などは創価学会にとって広告塔としての価値があるから大事にされているからである。

芸能人は一般会員のように活動に従事させられる事もなく、

たまに座談会や本部幹部会に顔を出す程度で済んでいるのだ。

中には選挙戦で公明党の遊説に参加したり、芸能人仲間を折伏している学会芸能人もいるが、

それは例外と言ってもよく、殆どの学会芸能人は学会活動には参加していないと思えるし、また、強制もされないと思える。

つまり、芸能人などは創価学会から大事にされる事によって

「創価学会は素晴らしい団体だ」と思わせ、それで広告塔としての役割に利用されているという事なのだ。

芸能人や作家等の学会員も週刊誌やインターネット上の創価学会批判は知っていると思うが、

それら批判は殆ど嘘だと思っているのではないか。

なぜなら、芸能人は芸術部に所属し作家等の文筆家は文化部に所属していて、

一般会員とは一緒に学会活動をする事はない為、

一般会員が強いられている非常識で過酷な活動や金集めなどの実態と創価学会の暗部を知らないからである。

だから世間で創価学会批判を目にしても、それを信じられないのだと思う。

また、芸能人は芸能界というライバルだらけの世界で生き残る為に

学会員同士の連帯を作って励まし合っていけるという利点もあると思われるし、

それに創価学会は文化祭など芸能的な事が好きな団体だから、

芸能人と合うという事もあるだろう。

ただ、これからも芸能人の学会員は増えるかどうかは判らないが、

下層階級の一般会員は減り続けているから、

創価学会を支えている一般会員が減り続けていては、

いくら芸能人の学会員が増えても創価学会は崩壊してゆくしかないのではないか。

そういう事になったら、有名芸能人にでも折伏で信者を増やしてもらい、

財務でも多額の寄付をしてもらわなければ、学会は生き残れないのではないだろうか。

特権階級だけでは創価学会の組織はもたないだろう。

 

 

 

 

決して創価学会に入会しない学会絶賛の識者達

創価学会を絶賛賞賛している識者や親しくしている文化人など、

創価学会の共鳴者や支持者、賛同者は少なからずいる。

だが、それら創価学会シンパと言える識者・文化人達だが、

その中の誰一人として創価学会の信者になってはいないのだ。

そんなに創価学会を素晴らしい団体だと思い、共鳴しているのなら、

自ら創価学会に入会すれば良いではないかと思うのだが、

創価学会を誉めてるだけで入会はしないのである。

だがそれは当然の話で、識者・文化人達も創価学会を胡散臭い団体だと思っているからである。

勿論、何らかの恩恵を受けているから表面上は支持したりお世辞を言ったりして仲良くしているが、入会して信者になりたいとは思ってないのだ。

宗教として信じるに足るものがないと思っているから信者にはならないのである。

当然の話だ。

 

 

 

活動家に仕立て上げられる学会員

創価学会では学会活動に積極的に参加している一般会員を「活動家」と呼んでいる。

普通、活動家というと、政治運動・社会運動などの分野で使う言葉だが、

仏教団体を自称している創価学会でも、学会活動に積極的に参加している会員を活動家と呼んでいるのだ。

つまり、学会員は仏教団体の単なる信者ではなく、活動家なのである。

何を活動するのかというと、創価学会の勢力を拡大する為の活動を強いられているのである。

この「活動家」という言葉一つ取っても、

創価学会が仏教だという事に違和感を覚えるはずだ。

学会員の多くは活動家になる為に創価学会の信心を始めた訳ではないだろう。

本尊に向かって勤行唱題をする事が信心だと教えられたはずだが、

信心を始めてみると、いつの間にか折伏戦だとか選挙戦だとか聖教新聞啓蒙活動だとか、戦いだとか闘争だとか、とにかく忙しい活動に引っ張り出されるようになる。

つまり、仏教団体で仏を拝んでいるだけのつもりだった信者が、活動家に仕立て上げられてしまうという訳なのだ。

そして、会員を活動家になるように仕向ける為の方法として、

創価学会では会合で決意発表や体験発表を頻繁に行なっている。

決意発表とは、折伏や選挙戦などの学会活動について、

会員がどんな心構えでどれだけ成果を上げる決意であるかという事を皆の前で発表する事であり、

体験発表とは、自分が創価学会で信心してどのような功徳の実証を示したかという体験談を発表する事である。

この2種類の発表が創価学会の会合ではよく行なわれる。

これは一般会員を学会活動に引き込む為の方策だと言える。

学会活動への決意を発表させる事によって活動に積極的に参加させるのが狙いなのであり、

体験発表の場合は、本人に創価学会での信心で功徳を得られたという気持ちにさせる為と、体験発表を聞いた会員が学会活動に奮起して取り組むように仕向けるのが狙いだと言える。

いずれにしろ、創価学会は上層部や本部職員という特権階級が、

一般会員をタダ働きさせ、金も貢がせる事が目的の団体だと言えるのだ。

 

 

 

 

宗教ビジネスとしての創価学会組織論

創価学会の組織を簡単に言えば、

創価学会の運営に従事する池田大作名誉会長を始めとする学会本部上層部及びその下に従う本部職員達と、

創価学会の運営には従事せず、世俗世間の職業で生活をしている一般会員とで成り立っている。

創価学会上層部及び本部職員達は仏教における出家者やキリスト教における神父・牧師などの聖職者の立場に当たり、一般会員の寄付によって生活をしている、謂わばプロの宗教家達なのである。

たとえ在家教団であっても、一般信者からの寄付によって生活している以上は、

出家者や聖職者と同じ立場でありプロの宗教家と言えるのだ。

プロの宗教家であるのなら、本来宗教家としての修行や実践は上層部や本部職員達が行なわなければならないのである。

仏教にしてもキリスト教にしても出家者や聖職者が厳しい修行をし、布教を行なっている。

一般信者はそんな事をする必要はなく、そのような厳しい修行も布教もしないから、

尊敬を込めて供養や寄付をする事によって出家者や聖職者の生活を支えているのである。

これが本来の出家者・聖職者と一般信者の関係なのだ。

ところが、創価学会では教義や行事、信心活動の方針などは学会上層部によって決められ、

一般会員はそれに従っていくようになっているのだが、

問題なのは、あらゆる諸活動が全て信心や仏道修行の名で一般会員に課せられているということだ。

世間に布教して信者を増やす為の折伏行を始め、選挙戦における公明党の票獲得支援活動及び選挙活動も聖教新聞の配達・集金業務も新聞啓蒙という名の販売拡張セールスも、民音の券販売も、諸会合開催運営も、その他諸々の創価学会の活動は全て一般会員が行なっており、

運営側の上層部や本部職員は号令を掛けているだけなのだ。

一般会員から財務や広布基金などの寄付を貰って生活をしているプロの宗教家の立場でありながら、

自分達が本来やるべき事を全て一般会員に押し付けているのだ。

実際、創価学会は公式ホームページでは一般会員としての学会員の信心活動として、

本尊への勤行唱題行と座談会や本部幹部会視聴などいくつかの会合参加くらいしか書いてないのであり、それが本来、一般会員が行なうべき創価学会の信心活動のはずなのである。

しかし、実際は布教としての折伏行も聖教新聞セールスも選挙戦での公明票獲得も、

全て一般会員にやらせているのである。

しかも、それら選挙での公明票獲得にしても聖教新聞セールスにしても、

それらは実際には商売行と権力獲得行であって信心とは無関係であり、仏道修行ではない。

また、寄付金も「ご供養の精神で」と言いながら、

財務は一口1万円以上などと金額指定までしており、

その上、幹部による会合での指導や訪問指導でも、

事あるごとに多額の寄付をするようにと同調圧力を掛けている有り様なのだ。

要するに、一般会員から金をせびっているだけでなく、

組織拡大や権力拡大、それに金儲けに一般会員をタダでこき使っているのが創価学会の組織なのである。

このように金を出させてその上タダでこき使うというのは、

カルトと呼ばれている集団に共通であり、他にも宗教ビジネスや詐欺団体としての手口とも共通である事に気づくはずだ。

つまり、創価学会の組織は創価学会が儲けるための組織なのである。

決して信者が幸福になる為の組織ではないのだ。

実際、このような組織の仕組みでは一般会員は幸福になりようがない。

人間関係を利用した悪質商法の手法

創価学会に対する批判として「創価学会は会員を洗脳している」とか「マインドコントロールしている」といった声が多く上がっている。

洗脳やマインドコントロールというのは、カルトなどが信者らを意のままに操り行動させる為の心理状態を制御・調整する技術の事をいうのだそうだ。

洗脳は暴力や薬物を使うなど強制的手法を用いた方法の事で、

マインドコントロールは暴力や薬物などを殆ど用いない方法での心理状態の制御・調整の技術方法の事をいうそうだ。

創価学会の場合、元学会員や現在学会員であっても非活動家の人たちがかつて創価学会の犠牲になったという事について、学会から洗脳されていたとかマインドコントロールされていたといった批判をしている事が多い。

それに対して創価学会を擁護している側からは「創価学会には洗脳とかマインドコントロールなどというものは存在しない」といった反論、逆批判がなされている。

確かに厳密な意味で言えば、まず洗脳というのは暴力や薬物などを使って強制的に意のままに操る場合の事であり、創価学会ではそういう事は見られないから、洗脳は存在しないと言えるだろう。

一方のマインドコントロールについては、幹部などによる同調圧力によって言われたままに動かざるを得ない心境にさせられたりするのが創価学会で多く見られる事であり、その同調圧力をマインドコントロールと言えなくもない。

自分も以前は創価学会批判でマインドコントロールという言葉を使った事があるが、しかし、厳密な意味からすればマインドコントロールという言葉も創価学会批判には使わない方がいいだろうと、近頃はそう思っている。

なぜなら、マインドコントロールという定義はまだはっきり定着している訳ではなく、学者の中には懐疑派も存在しているという事もあるし、

また、マインドコントロールという言葉をあやふやな定義のまま創価学会批判に使っていると、創価学会やその擁護派が「マインドコントロールは科学的に認められていないものだ」などと言い出して、あやふやな定義への揚げ足取りをして逆批判してくるからである。

それよりも、何も洗脳だとかマインドコントロールだとか難しい言葉を使わなくても、創価学会批判はもっと簡単な言葉でできるのだ。

それは、創価学会は人間関係を利用、あるいは悪用して信者を意のままに操っているという事なのだ。

創価学会が信者に強要している非常識な活動にしても金集めにしても聖教新聞の多部数購読にしても、

「嫌なら断ればいいんだ」と創価学会擁護派や創価学会をよく知らない部外者などは言うのだが、親しい相手から言われると断りにくいとか、

やりたくないが周りからの同調圧力でやらざるを得なくなったとか、

そういう人間関係の心理というものを利用しているのが創価学会なのである。

勿論、これは創価学会に限った事ではなく、他のカルトと呼ばれている宗教団体にしてもそうだし、更には宗教団体に限らず、職場でもサークルでも、様々な団体やグループで起こり得る事なのである。

創価学会は人間関係における心理をうまく利用、あるいは悪用して、

信者が断れなくなるようにうまく事を運んでいるという事なのだ。

故に洗脳だとかマインドコントロールなどという難しい言葉など使わなくてもいいのである。

そして、この人間関係の心理をうまく利用したものとしては悪質商法が有名であるが、創価学会は正に悪質商法の宗教版と言ってよい団体なのだから、

創価学会批判をするのに洗脳やマインドコントロールという言葉を使う必要はないのだ。

創価学会は本当に世界に広がっているのか?

聖教新聞を見ると、創価学会は世界に広がっているという記事が頻繁に書かれてある。

本当に創価学会は世界に広がっているのか?

創価学会が世界に広がっているという事は海外に学会員が増えているという事に他ならない訳だが、本当に世界中に学会員が増えているのだろうか?。

確かに近年、仏教は海外、特に欧米でブームになっているようだ。

欧米の有名な俳優や映画監督などの著名人にも広がっているそうだが、

但し、一口に仏教と言っても様々な種類に分かれており、

海外で広がっているのは主に日本の禅宗やアジアのテーラワーダ仏教(上座部仏教)、チベット密教などで、それらの行法としての座禅や瞑想に特に人気が集まっているようだ。

対する創価学会は会員数の多い韓国を除けば、殆ど広がってはいない。

中には、過去に創価学会(海外では「創価学会インターナショナル(SGI)」に入っていたが、それが合わずに他の仏教宗派に移籍したという人々もいる。

例えばドイツでは元SGIの会員だった人々が、

新しく建設された日蓮宗の寺院の信者になったという例もある。

本来の仏教が目指しているものは寂静と安らぎの境地なのである。

そして海外の人々が求めている仏教も寂静と安らぎの境地なのである。

早口の題目を大声で騒々しく唱え、

同じく軍歌まがいの学会歌をこれまた騒々しく歌い、

学会活動をこれまた騒々しく行なう創価学会は世界から求められている仏教ではないから逆に嫌われるだけなのだ。

このような騒々しくて嫌われる創価学会が世界に広がらないのは当然の話だ。

形式主義の組織信仰

創価学会は組織というものを重要視している。

戸田城聖二代目会長は「創価学会の組織は戸田の命よりも大事だ」と言っていたそうで、とにかく、創価学会は組織最優先となっている。

学会幹部も事あるごとに、「創価学会の組織にどこまでもついて行く事が大事だ。学会組織についてさえいれば、必ず守られ福運が積まれて成仏できる。学会組織から離れたら地獄に堕ちるしかない」などと言っていたものだった。

つまり、創価学会という組織に入ってついて行きさえすれば幸福になるという組織信仰となっている訳だが、

勿論、これは創価学会が信者を思うままに操る為に考え出したものであり、信者を組織に縛り付け盲従させて創価学会の為にタダでこき使い、資産を搾り取るのが目的なのである。

更に創価学会は2016年には会則変更した際に、「創価学会仏」を名乗っている。

つまり創価学会という組織そのものが仏だと宣言しているのであるが、

これなどは創価学会らしい形式信仰の表われの最たるものと言えるだろう。

もとより、仏の境地になる、成仏するというのは個々人の心の問題なのである。

創価学会という組織が成仏させてくれる訳ではなく、個々人が心の境地を高めていく事によって個々人がそれぞれ成仏していく訳である。

学会組織に入ってさえいれば学会が成仏させてくれるとか幸福にしてくれるなどという事はあり得ないし、逆に学会組織から離れたら地獄に堕ちるなどという事もないし、ましてや創価学会という組織そのものが仏の境地になる事などあり得ないのだ。

それどころか、創価学会に入ってついていくと、とことんタダでこき使われる上に資産まで巻き上げられてしまい、更に不幸になっていくしかないのである。

創価学会は仏教を利用した宗教ビジネスに過ぎないからだ。

 

 

 

「一念三千論」考

自分は創価学会にいた頃は、天台大師智顗の思想に関心があった。

特に「十界」や「十界互具」「一念三千論」の細密な心の世界を顕わした教理に関心があった。

日蓮を宗祖とする創価学会に在籍していても、

日蓮よりも智顗の思想に心惹かれ、もっと智顗の思想を、中でも一念三千論を詳しく知りたいとさえ思っていたほどだった。

後に、智顗が立てた五時教判は歴史的事実ではなく、智顗の勝手な想像によって立てられたものでしかないという事が判った後でも、

智顗の一念三千論は理論としてよくできた教理だと今でも思っている。

一念三千とは、簡単に言えば瞬間瞬間の心に三千と言われるあらゆる心の世界が具わっているとする教理で、実践としては瞑想によって自己の心の中に具足する仏界を観法することをいう。

そのように、心の諸相を顕わし、心の状態を高い境涯へ上げてゆく為に瞑想を行じてゆくのが智顗の説いた一念三千論であるが、

日蓮も智顗の一念三千の理法を受け継ぎ、やはり仏法の極理としたが、

智顗の一念三千は理論だけの説明書のようなものだと断じて「理の一念三千」と名づけ、像法時代なら「理の一念三千」で効果があったが、今末法の世では衆生の機根が低い為効果がないとし、機根の低い末法の衆生を救うには理論ではなく実践が必要だと論じた。

その具象化として自身が顕わした十界曼荼羅の本尊に法華経の題目を唱えるという実践が必要だと説いた。

そして智顗の「理の一念三千」に対して自身の唱題行を「事の一念三千」と称し、末法における成仏の為の実践行だと宣揚したという訳なのだが、

しかし、智顗の一念三千は理論だけでしかないと言ってるが、

智顗の一念三千は単なる理論だけのものではなく、

瞑想によって心の境涯を高めるという行を実践しているのである。

心の境地を仏界まで高めるという事は、自己の内面に向かう事に他ならず、

その為に釈尊以来の仏教は自己の内面へと向かう瞑想を重要な仏道修行としてきたのである。

「事の一念三千」を仏界湧現の実践行だと言ってみたところで、

その行というのが日蓮が造った曼陀羅に呪文のような題目を唱えるという迷信信仰では、自己の心を仏界まで高めるのは難しいのではないだろうか。

まだ日蓮なら一般人よりも日本を救いたいという高潔な志を持っていたと思われるから、

その高い志で唱題する事によって高い境地へと向かえたのかもしれないが、

機根が低いという末法の衆生には逆効果になってしまうのではないか。

その証拠が、創価学会の姿なのである。

創価学会は日蓮の唱題行を「事の一念三千」として継承しているが、

「闘争しろ!」とか「戦え!」と叫んで学会員の闘争心を煽っており、煽られた学会員も、その闘争心によって本尊に唱題している訳なのだから、そんな闘争心で題目上げていたら、仏界どころか阿修羅界が湧現してしまうだろう。

それが一念三千論の理屈なのだから、その理屈で言えば、ガラの悪い学会活動家は阿修羅界、金集めばかり考えている金の亡者の学会首脳部の連中は餓鬼界とか地獄界辺りに行くのではないだろうか。

いずれにしろ、一念三千の理論に照らしても、創価学会で信心活動しても、仏界ではなく阿修羅界とか餓鬼界・地獄界の境涯にしかなれないという事なのである。

 

 

密教化している日蓮の思想

近頃はどうか知らないが、昔の創価学会の教学書には、

日本天台宗の第三代座主であった円仁(慈覚大師)が密教を持ち込んで天台宗を密教化した張本人だと批判していたものだった。

創価学会が天台宗の中でも特に円仁を批判するのは宗祖の日蓮が激しく円仁批判をしていたからで、日蓮にとって天台宗は自分が出家した宗派であると同時に、自分が最高に正しい経典だと位置づけた法華経を根本経典に定めていた宗派でもあったのが、第三代座主の円仁が本格的に密教化して謗法の宗派になったというのが許せなかったからなのだ。

日蓮は円仁以前までの天台宗は法華経を基にした正しい宗派であり、像法時代の正法であったと考えていたのだ。

だから、創価学会でも中国天台宗の智顗(天台大師)と日本天台宗の最澄(伝教大師)を共に像法時代の正しい人師・論師と定めているのだ。

そのように創価学会では日蓮同様、天台宗は第三代座主の円仁が密教を持ち込んで密教化したと批判しているのだが、

しかし実際は元々、天台宗の開祖である最澄自身が密教を導入したかったのだ。

最澄は法華経至上主義者ではなく、法華経を中心とする戒律や禅、念仏、そして密教を融合させた総合仏教としての日本独特の天台宗の教学確立を目指していたのである。

それは、唐に渡って密教を日本に持ち帰って真言宗を開いていた空海(弘法大師)に弟子入りして本格的に密教を学ぼうとした事でも明らかだ(ちなみに、最澄も空海と同じく第18次遣唐使として唐に渡っている。この時、空海は第1船、最澄は第2船にそれぞれ乗船している。最澄も密教を持ち帰っているが、正当の密教ではない傍系の「雑密」と呼ばれるものしか持ち帰ってなかったので、本格的な密教を学ぶ為に空海に弟子入りしたのだった)。

しかし、途中で空海の拒絶にあって交流が絶たれ、最澄は密教の学びを完成させる事ができなかったのだ。

そして最澄の没後に、唐に渡った弟子の円仁と円珍によって本格的な密教がもたらされ日本天台宗の密教(台密)が完成したのである。

日蓮にしても創価学会にしても、天台宗の開祖である最澄が全く密教には関わっていなくて法華経一筋であったかのように言っているのだが、

実際は開祖の最澄からすでに天台宗の密教化は始まっていたのである。

また、密教を毛嫌いしていた日蓮だが(日蓮によれば、密教の教義は天台大師智顗の一念三千の法門を盗んで構築したものなのだそうだが)、

実は日蓮自身が密教の影響を受けているのである。

日蓮が顕わした曼陀羅本尊は密教の曼陀羅の模倣であるし、

南無妙法蓮華経の題目も真言(マントラ)の影響に他ならない。

つまり日蓮の思想が密教化しているのである。

日蓮にしても創価学会にしても、自分達が密教から影響を受けているのに、それに気が付かずに密教を批判攻撃するとは滑稽ではある。

 

 

話としては面白い「日蓮本仏論」

自分が創価学会にいた頃は、学会が主張している「日蓮本仏論」を仏教の正しい教義だと思っていたものだった。

しかし様々な仏教書を読んでいくうちに、日蓮本仏論は後世の創作であり、

日蓮本人は自身を「本仏」だと明確に宣言しておらず、本仏としての釈尊に仕えて法華経を伝える「上行菩薩の再誕」という自覚を持っていた事を知る。

日蓮本仏論が完成したのは江戸時代の頃で、

御書の中の「身延相承書」「池上相承書」「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」に書かれてある内容を日蓮正宗大石寺26世法主の日寛を始めとする大石寺の学僧が解釈、体系化、理論化して完成していったのだという。

しかし、これら「身延相承書」「池上相承書」「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」は
今では偽書とされていて、信憑性が薄く、日蓮本仏論の根拠にはできないものだという。

日蓮本仏論の内容としては、

歴史的に見ればインドで仏教を開いた釈尊が本仏であるように見えるが、

実は久遠元初という宇宙の始まりの時に南無妙法蓮華経という宇宙の根本法則を悟ったのが「久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)」という本仏としての日蓮であったという。

インドで生まれた釈尊はそれ以前に本仏である日蓮から南無妙法蓮華経を授けられていて、釈尊もその南無妙法蓮華経によって成仏していたのであり、

本仏日蓮に対して釈尊はそれよりも劣る迹仏の立場でしかないのだという。

歴史的に見れば釈尊を始めその他の竜樹・天親・天台智顗などの人師・論師が日蓮よりも先に世に出ているが、それらは本仏日蓮が世に出現する前の露払いの役割でしかなかったのだと解釈しているのである。

確かに話としては壮大な、今で言えばファンタジー作品のストーリーのようで面白いのだが、それを真実として信じるには無理がある。

まず、日蓮は久遠元初という宇宙の始まりの時に南無妙法蓮華経という宇宙の根本法則を悟った「久遠元初の自受用報身如来」だとか、

実は釈尊にこの南無妙法蓮華経を授けて成仏させたのが本仏日蓮だなどと主張しているが、

この主張には何ら歴史的事実としての裏付けもなくその根拠は何もないのである。

経典のどこにもそんな事は書いてないから、

創価学会が正しい宗教の基準だと言っている「三証」の1つ「文証」にもなっていない。

日蓮正宗の26世法主だった日寛が言い出したただの作り話でしかないのだ。

そもそも釈尊と日蓮を比べて、どちらが本仏として相応しいかというと、

やはり釈尊が本仏として相応しいのではないか。

釈尊が説いた「中道」「無常・苦・無我」「苦諦・集諦・滅諦・道諦」「八正道」などの思想や修行法は合理的であり道理に適っており、

更に釈尊の人物としての生き方や振る舞いも調和された言動で本仏に相応しいと言える。

対する日蓮の思想や行法は、板や紙の曼陀羅本尊に呪文のような題目を唱えれば救われるという、釈尊がかつてバラモン信仰を批判していた迷信信仰とも言えるようなものでしかなく、

思想としては念仏信仰と同じく、一般民衆の為に説いた仮の教えという範疇でしかない。

また、日蓮の人物としても、法華経誹謗の出家者は殺しても構わないなどと過激な事を言っており、とても本仏としては相応しくない。

いずれにしろ、本仏や迹仏などという言葉で上下の区別などする必要もないし、

歴史を見れば釈尊が仏教の開祖である事は間違いないのだから、

それをそのまま受け入れれば良いのである。

 

 

念仏信仰と日蓮の思想について思う

「きんさん・ぎんさん」の記事に念仏信仰の事を書いたので、

今回も念仏信仰について考察しておきたい。

調べてみると、念仏と言っても様々な修法があるそうだが、

日本では「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)が、

浄土宗の開祖・法然と、その弟子で後に浄土真宗を開いた親鸞によって弘められていて、

念仏と言えば称名念仏を指す事が多い。

法然・親鸞と同時代人だった日蓮は特に法然の念仏信仰を『四箇格言』で「念仏信仰は無間地獄に堕ちる」と言って激しく批判攻撃しているし、その日蓮を宗祖としている創価学会も念仏信仰を批判している。

日蓮正宗と決別して抗争するようになってからは他の宗教に対してはあまり批判しなくなっている創価学会だが、それでも思い出したように聖教新聞や大白蓮華などの機関紙誌に日蓮の御書の解説で念仏信仰を批判している事がある。

自分も脱会した後も、創価学会にいた時の影響で念仏信仰を見下すような気持ちを持っていたものだった。

確かに念仏信仰は創価学会が批判していたようにこの世を穢土(穢れた世界)とし、

厭世的で無気力な生き方に導いてしまうような思想とも言えるが、

しかし、念仏信仰がなぜ一般民衆に広まったのかは、当時の時代背景も考慮する必要がある。

当時は封建社会で、一般民衆は権力者から抑圧されていた時代であり、

そういう時代には権力者に対しては諦めるしかなかったという背景があった。

そういう人生を諦めるしかなかった一般民衆の心の支えになったのが念仏信仰だったと言える。

厭世的で諦念思想の念仏信仰に対して、日蓮の思想は創価学会が強調していたように現実変革の傾向が強いのは確かだが、しかし、日蓮の思想によって実際に現実を変革できたかというとそれができていないのだ。

仏教は本来、自己の内面へと向かう教えだが、創価学会は日蓮の思想を仏法の本流であるかのように喧伝し、社会や政治など、その関心を自己の外へと向けて「現実を変革するのが仏法だ」と主張している。

しかし、いくら現実変革の仏法だと叫んでいても実際には日蓮仏法で現実の変革はできていないのだ。

その現実変革の最終目標として「広宣流布の実現」を掲げているが、日蓮の時代から現在まで、広宣流布は達成できていない。

「現実を変革できなければ仏法ではない」と言いながら、自己の内面を疎かにし、その上、現実も変革できていないのが創価学会だと言える。

また、創価学会は日蓮は鎌倉幕府の迫害に遭って本仏としての境地に立ったと言っているが、

法然と親鸞も幕府の弾圧に遭って流罪に処されているのであり、

日蓮だけが迫害を受けている訳ではないのだ。

以前は創価学会の教学だけで念仏信仰を見ていたが、

何事においても一方的な見方だけでは実相を知る事はできないという事を思ったし、

近頃は念仏信仰・浄土思想への考え方も変わってきている。

 

 

 

 

 

自ら「人間革命」できない宗教である事を立証してみせた創価学会

創価学会では、幹部や会員が事件や不祥事を起こすと、

「それは個人の資質の問題であって、創価学会の信心とは無関係だ」などと弁解しているが、

常日頃、人間の善悪の行為はどんな宗教を信仰しているかによって決まると言っていながら、自分達の中から犯罪者など都合の悪い者が出てくると「信心とは無関係で、あくまでも個人の資質の問題だ」ととぼけているのが創価学会だ。

つい先頃も、東京で連続放火事件が起き、捕まえてみると犯人は創価学会の職員だったという。

一般紙には犯人の職業は「団体職員」となっていたが、インターネットの詳細情報では学会本部職員で、次期会長とも目されていた谷川佳樹副会長の息子なのだという。

連続放火を起こした動機は「仕事のストレスを解消する為」だったそうだが、

世界最高に正しい創価学会内で仕事をしていてストレスが溜まり、

それを解消する為に放火をするとは。

確かに創価学会は本部職員にしても一般会員にしても、

ストレスが溜まってしまう宗教である事は確かだ。

この件についても、創価学会は「それは個人の資質の問題で、創価学会の信心とは無関係」とか「信心が足りなかったから」とか言うのだろう。

しかし、「世界最高に正しい」という創価学会で信心していて個人の資質の問題を防げなかったのだから、いくら創価学会で信心していても、

創価学会が掲げている「人間革命」は実現できないという事だ。

学会の言い分では個人の資質の問題を改善する為の信心であるはずで、

その信心で「人間革命」できずに犯罪者になってしまうようでは、

創価学会の信心は何の役にも立たないという事だ。

今回の事件でも、創価学会はそれを見事に立証してみせたのである。

 

参照ページ⇒https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-675015.html

 

きんさん・ぎんさんに思う

100歳を超した双子の国内最高齢姉妹として日本中を和ませてくれた「きんさん・ぎんさん」。

姉の成田きんさんは2000年1月23日に107歳で亡くなり、妹の 蟹江ぎんさんは2001年2月28日に108歳で亡くなっている。

姉のきんさんは心不全で亡くなったが、亡くなる前は念仏を称えていたそうで、

その死に顔は赤みが差し、安らかな表情で眠っているようであったという。

妹のぎんさんは老衰で同じく安らかな顔で息を引き取ったという。

創価学会は日蓮の「四箇格言」を引用して「念仏信仰は無間地獄に堕ちる」と、

念仏信仰を批判攻撃しているが、念仏信仰者だったきんさん・ぎんさんは、

多くの孫にも恵まれて幸福な老後を迎え、長寿の人生を全うした。

「幸福になる為」「福運を積む為」と言って家庭も人生も犠牲にして学会活動に闘争にと励んでいる学会員と、念仏信仰者だったきんさんやぎんさんと、どちらが幸福だろうか。よほどの変人奇人でもない限り、きんさん・ぎんさんの人生が幸福だと思う事だろう。

自分は念仏信仰には関心はないが、仏教としては認めている。

念仏信仰はいわゆる「大乗非仏説」で、釈尊の実際の教えではないが、

釈尊の思想がある程度反映されていると思うので、自分は仏教だと認めているのだ。少なくとも日蓮の過激な法華経原理主義思想よりも、より仏教的だと思っている。

念仏を称えて実際に臨終時に阿弥陀如来が極楽世界へ連れて行ってくれるとは思えないが、念仏を称える事によって安心し、心が穏やかに安らかになるのなら、

それこそ釈尊が説いた「涅槃」の境地に近いのではないかと思う。

きんさんは念仏を称える事によって安心し穏やかな安らかな気持ちで逝ったのだと思う。

「題目闘争だ!」と言って唱題しながら闘争心を燃え上がらせている学会員よりも、念仏信仰のきんさんの方がはるかに高い境地ではないかと思う。

富永仲基に触発されて考えてみる

大乗仏教は釈尊が直接説いた教えではないという「大乗非仏説」は、

仏教を文献学・史学的な面から研究する明治時代以降の近代仏教学によって今では常識となっている。

それ以前、つまり江戸時代までの日本では、すべての仏教経典は釈尊が全て直接説いたものとされていて、日本ではそれが常識だったのだが、

驚くべき事に、その江戸時代にすでに富永仲基という町人学者によって大乗非仏説が提唱されていたのである。

富永仲基による大乗非仏説は「加上説」と呼ばれている考え方で、

思想や主張は、それに先行して成立していた思想や主張を足がかりにして、

さらに先行思想を乗り越えようとする。その際に、新たな要素が付加される。

それが加上説で、大乗仏典の内容も、より古い経典の教説とは異なった教説を加上しながらより複雑な内容へと発展してきたものなので、

大乗仏典は釈尊が説いたものではないと、富永仲基は結論づけているのである。

伝統的な仏教信仰を疑う事のなかったと思われる江戸時代に、

そんな近代的な思考をする人物がいたとは驚きである。

勿論、富永仲基が天才だったという事もあるが、

この事は、今まで当たり前とされていたものを疑うという考え方を持つ事も重要だと気付かされる。

創価学会の常識外れの活動や行事などを、疑う事なく延々と続けている学会員も、「なぜこんな事までしなければならないのか?」「こんな事をしている創価学会は本当に正しい宗教なのか?」と疑いの気持ちを持つ事もあるだろう。

その時、その懐疑心をすぐ打ち消して忘れるか、それともより深く掘り下げて考えるかによって自分の人生も変わってくるものだ。

「この御本尊を疑えば地獄に堕ちる」という脅し文句もただ恐れて従うのではなく、自分で考えるべきだろう。

信仰の自由が許されていない時代ならともかく、現代の日本は信教の自由が約束されているのである。

『文証・理証・現証』全て崩壊の創価学会

仏教特に日蓮系宗派で、あらゆる宗教の高低浅深や優劣を定める判断基準の一つとして用いているものに「三証」というものがある。

三証とは文証・理証・現証の3つの証明の事で、

この3つが揃ってはじめてその真理が完全なものであると証明されるとしている。

文証とは、その思想が仏説である仏教経典に基づいているもの。

理証とは、その理論が道理に適っていて万人を納得させられるもの。たとえ文証があっても道理に適っていなければ正しいという証明にはならない。

現証とは、たとえ文証、理証があってもそれが現実に証明されなければ意味がなく、現実の生活上において功徳が実証されるものが正しい証明となる。

というもので、創価学会もこの三証を使って、創価学会こそ三証全てが揃っている最も正しい宗教だと自画自賛していたものだが、

しかし、これまでこのブログにも書いてきたように、

創価学会は実際には文証・理証・現証全てに渡って崩壊しているのである。

まず文証としている法華経は近代仏教学の研究によって、実際には仏(釈尊)とは無関係で、釈尊滅後500年以後の後世に作られたもので仏説ではないという事が判っている。法華経は仏説ではないのだから、その法華経を依経にしている創価学会の文証は崩壊しているのである。

次に理証も、法華経を基にして日蓮が造立したという曼陀羅本尊に向かって、同じく法華経を基にした題目(南無妙法蓮華経)を唱える事が末法の正しい行法だと主張しているが、題目にしても本尊にしても仏説ではない法華経を基にしているのだから、それが正しいという道理にはならない。

釈尊とは無関係の後世の創作経典を基にした本尊に呪文のような言葉を唱えて功徳が現われるなどというのは道理に合わないし筋が通らない。

故に創価学会は理証も崩壊しているのである。

そして現証だが、創価学会はこれまで「創価学会は数えきれないほどの功徳の体験者で溢れている」とか「創価学会の本尊に祈ればどんな不可能な事も可能になる」などと功徳の実証を大々的に宣伝してきたが、実際には功徳の実証を示している学会員よりも、家庭崩壊、生活崩壊など多くの苦悩の体験者で溢れており、創価学会は功徳どころか「罰の体験者が溢れている」宗教だと言えるのだ。

このように功徳の実証が現われない創価学会は現証も崩壊していると言えるのだ。

以上、創価学会は三証全てが崩壊しており、逆に正しくない宗教である事がこれで証明されたのである。

 

 

後世に作られた末法思想

創価学会は、末法では釈迦仏法は「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」して功力がなく、日蓮の「大白法」でなければ救われないと主張し、

現代ではその日蓮仏法を正しく継承している創価学会で信心しなければ救われないとうそぶいている。

要するに正法・像法・末法の三時説の事なのであるが、

創価学会が末法においては釈迦仏法では救われないという論拠にしているこの三時説もまた、学会が「法華経こそ釈尊の真実最高の法」と主張する論拠としている天台の五時教判と同じく、何の歴史的根拠もない、ただの作り話でしかない。

正法・像法・末法の三時説は中国で作られた話で、しかもいくつもの三時説があり一定していないのだ。

中国の天台智顗はその中から釈迦滅後一千年を正法、その後の一千年を像法、

そしてその後の万年尽未来際を末法とする説を用いたのであり、

日蓮もその説を用いているのだが、

その三時説の内容としては、大乗仏典の中の「大集経」を使っているのだ。

大集経では仏の予言として、釈迦滅後を500年毎に区切り、

それを「後五百歳」説としているのだが、

それによると、第1の500年間は「解脱堅固」の時代で、

釈迦仏法によって悟り解脱する者が多い時代だとしている。

第2の500年間は「禅定堅固」の時代で、

禅定の修行に励む者が多い時代だという。

第3の500年間は「読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)」という時代で、

仏教経典を読誦し説法を聞く者が多い時代だという。

第4の500年間は「多造塔寺堅固」の時代で、

仏塔や寺院がたくさん造られる時代だという。

そして第5の500年間は「闘諍堅固(とうじょうけんご)」の時代で、

争い諍いが多くなる時代だという。

つまり、これを正・像・末の三時代に配すると、

第1と第2の500年、両方合わせて一千年が正法時代。

第3と第4の500年、両方合わせて一千年が像法時代。

そして第5の500年が末法になるのだとしているのだが、

つまり、釈迦滅後の正法一千年間は釈迦仏法によって解脱する者が多く、

また、禅定の修行に真面目に励む出家者も多いのだという。

それが次の像法一千年間は、釈迦仏法が形骸化してくる時期で、

形式的行として経文読誦や説法を聞く事や、

仏塔や寺をたくさん造る事が盛んになるのだという。

それが末法に、つまり「後五百歳」である第5の500年間に入ると、

釈迦仏法は功力を失い、世の中は乱れ、争い事が多くなるのだという。

日蓮は、この釈迦仏法が功力を失った末法では法華経を、それも自分がその法華経の文の底から取り出した宇宙根源の法だという「南無妙法蓮華経」の題目を、

日蓮が宇宙根源の法を形として顕わしたという曼陀羅の本尊に唱えると共に、

折伏を行なわなければ救われないと断じたのである。

創価学会はその日蓮の主張をそのまま継承している訳なのだが、

実は、日蓮が正・像・末の三時説の根拠にした「大集経」そのものが

近代仏教学の研究で、中国で作られた偽経である事が判明しているのである。

つまり、その大集経の内容は、未来の予言ではなく、

実際にこれまで起きた仏教の堕落を予言の形で書いて、

仏教者に対して警告をし、批判している内容なのである。

また、正法・像法・末法の三時説についても、

インドで作られた経典には正法と像法しか書かれてなくて、

末法という考え方はまだできていなかったというのだ。

しかも、その正法・像法の意味も、

インドでは正法は文字通り「正しい法」という意味であり、

像法とは「正しい法に似たもの」という意味だったのだが、

それが中国では、正法・像法という言葉が時代区分を表わす意味に変えられてしまったのだ。

つまり、釈迦滅後一千年間(他に異説がいくつかある)が正法、

その後の一千年間(これも、他に異説がいくつかある)が像法で、

そして、これに中国で末法という言葉が作られて、

ここに正・像・末の三時説が出来上がったのだ。

その内容も、正法時代は釈迦仏法で悟りを開く事ができる時代であり、

像法時代は釈迦仏法が形骸化して、修行をする者はいるが正しく悟れる者が少なくなる時代であり、

末法になると釈迦仏法は完全に功力を失い、修行する者も悟れる者もいなくなり、

世は乱れ天変地異が多発し、人間も悪質な者が多くなり、救いのない時代になるとしているのである。

日本の鎌倉時代のいわゆる鎌倉仏教は、そのような末法到来という危機的時代相の下、

釈迦仏法に代わる末法の衆生を救う新たな法の確立を目指して立宗されていったという経緯があったのだ。

それが法然の浄土宗や道元の禅宗(曹洞宗)や、日蓮の法華経を基にした日蓮宗(法華宗)だったのだ。

だが、結局その正法・像法・末法というのはすでに書いたように、中国で作られた作り話に過ぎず、故に、末法になれば釈迦仏法は功力を失うという事などあり得ないし、末法では日蓮仏法でなければ救われないという事もないのである。

真理としての法則というものがあるのなら、その法は免許証の期限切れみたいに、ある一定の期間が過ぎたら功力がなくなるという事などある訳がない。

真理というものは大昔から未来に渡って永遠に変わらないものなのだ。

釈尊滅後二千年経って末法に入ったから法が変わってしまうというものではないだろう。

途中で変わってしまうようなものは真理でも宇宙の法でもないのだ。

結局、正・像・末の三時説にしても、末法になれば日蓮仏法を信じなければ救われないという考え方にしても、宇宙の法ではなく、人間の浅知恵によって考え出されたものでしかないのだ。

 

 

 

中道の観点から考える

前回の記事にも書いたが、仏教の基本思想は中道にある。

中道とは両極端の二辺を離れた中正な生き方の事を指し、

釈尊の教え、即ち原始仏教においては、主として不苦不楽の中道を意味し、

その具体的な行法として八正道の修行法を弟子達に説いている。

以下は、原始仏典の阿含経に書かれてある、釈尊が弟子達に言ったとされる言葉である。

「比丘達、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。

二つとは何か。第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるという事、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、尊い道を求める者のする事ではない。

また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるという事、これは苦しく、尊い道を求める者のする事ではなく、真の目的にかなわない。

比丘達、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しい悟り・涅槃の為に役立つものである。
比丘達、では如来がはっきりと悟った所の、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しい悟り・涅槃の為に役立つ中道とは何か。それは八つの項目から成る尊い道(八正道、八支聖道)である。

 

中道とは単に何でも真ん中の生き方をすればよいという事ではない。

阿含経にも、「二つの対立した極端に捉われるな。更に中(ちゅう)にも捉われるな」という事が書かれてあるが、

二つの極端があると、それを合わせて、足して二で割るというような、そういう事にまたとらわれてはいけないと言っている。

快楽主義の生き方と苦行主義の生き方は両極端だから真ん中の生き方をすればよいといって、自堕落な快楽生活と苦しみの生き方とを半分ずつすればよいというものではないのだ。

仏教で説く中道とは適度さの事であり、程良いバランスを取る事なのである。

よく言われる「腹八分」という状態が中道の意味として合っているのではないか。食べ過ぎず空腹過ぎない状態が最も体調が良い状態であるように、

物事や生活においても、この「腹八分」の適度さと程良いバランスが最も快適な生き方ではないかと思う。

では「世界最高の宗教の王者」を自認し、最も正しい仏教教団と自画自賛している創価学会はどうかというと、この仏教の基本の中道がないのである。

例えば、題目を唱える事が正しい行法だといって、

家事も放ったまま何時間も唱題する事を強要されたり、

福運を積む行法だといってこれまた仕事も家庭も顧みずに学会活動に没頭させられたりするなど、全て極端に偏っているのが創価学会なのであり、

更に、聖教新聞を必要以上に多部数購読させられたり、

公明党支援の選挙戦で支持票獲得などの選挙活動に没頭するよう強要されて仕事も休まされたり、

折伏戦でも友人を無理やり入会するよう強要されて友人から絶交されたり、

とにかく無理をし過ぎるよう強要されるのが創価学会なのである。

そして中道という正しさの基準がない創価学会では盲信・狂信に陥りやすくなる。

そのバランスを欠いた苦行とも言える創価学会の無理をし過ぎる信心なり活動なりに盲信・狂信のまま従って行くと生活崩壊、家庭崩壊、人間関係崩壊等の更なる苦しみの状態となるのだ。

実際、学会活動家にはこのような事例に暇がない。

仏教の基本である中道がない創価学会は仏教ではないのだ。

 

 

 

欲望を全面肯定する創価学会

創価学会が現世利益を力説する根拠となっているのは、

大乗仏教で説く「常楽我浄」の四徳の思想にある。

本来の仏教即ち初期仏典に説く釈尊の教えでは、

この世を苦の世界と捉え、苦の原因として、

この世は無常の世界であり、無我(我が所有ではない)だからであると説いている。

この世の諸事象を観察すれば正にその通りである事が判る。

そして釈尊は、苦を克服する為にはこの世の欲望への執着から離れよと説いているのであり、仏教の修行とは、欲への執着から離れる事にあるのだ。

ところが、この世を「常楽我浄」と見ている創価学会は、

この世は実は仏が常住する世界であるとし、

この世は楽土であり、絶対的幸福境涯が実現できる世界であるとし、

清浄な世界であると主張しているのだが、

この考え方は一見現実肯定で前向きな考え方のように見えるが、

釈尊の説いた中道の物差しを外してしまうと、

この世の我欲をとことん追い求めて欲望の全面肯定になって欲まみれ、邪欲まみれ、我欲まみれとなってしまう。それが創価学会なのだ。

現世利益の大功徳を大々的に宣伝し、功徳を得る為と称して行なっている常識外れの学会活動にしても金集めにしても中道から外れて極端に偏っている姿なのである。

日本の仏教諸宗派も同じく大乗仏教であり、

思想として「常楽我浄」の四徳を元にしているが、

伝統仏教の場合はまだ仏教の根本である中道の立場に立っているから創価学会のような常軌を逸脱した非常識な行動には至らないが、

創価学会のような団体にとっては仏教の中道思想などはあってないようなものなのだ。

創価学会は宗教というよりも仏教をビジネスとして利用している団体だからだ。

創価学会の「生命力」=ガラ悪く生きる事

創価学会は「生命力」というものを強調する。

創価学会によれば、あらゆる困難を乗り越えていく為の力が「生命力」であるとし、この生命力を湧き出させる為には、宇宙の根本法たる「南無妙法蓮華経」に合致した生き方をしなければならず、その為には創価学会の本尊に法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱え、学会活動をしなければならないのだというのだが、

実際には、とにかく大声を張り上げて元気よくしていたり、厚かましく図々しく振舞ったり、ふてぶてしい態度をしていると「生命力がある」ともてはやされ、物静かにしていると「生命力がない」と貶される。

それが創価学会流の「生命力」というものなのだが、

学会で言う生命力というものは仏界湧現の生命力ではなく、

単なる粗暴な阿修羅界としてのガラの悪さに過ぎない。

それは暴力団などのガラの悪さと同じであり、

折伏行や他宗との法論においても理路整然と静かに理性的に語りかける釈尊のような説法ではなく、とにかく相手を威圧する態度で有無を言わさず屈服させるのがその阿修羅の姿としての創価学会なのである(その阿修羅のような威圧的な法論としては、日蓮宗との法論『小樽問答』が有名である)。

そもそも創価学会の言う「生命力」というものは仏教とは無縁のものでしかないのだ。

創価学会のような暴力団まがいのガラの悪さや軍隊式の大号令調を最も嫌い、寂静と理知・理性を重要視しているものが釈尊から続く本来の仏教なのである。

そういう意味で、ヤクザのなりそこないのような粗暴でガラ悪い創価学会は仏教ではなく阿修羅教なのである。

しかも、そのガラの悪さやカラ元気を「生命力」だと言っている創価学会だが、

その生命力で学会員があらゆる困難を悠々と乗り越えていってるかというと、

日頃自信満々に創価学会の信心のすごさを語っている地区幹部や支部幹部などの活動家が、

生活に困ったりすると慌てふためいて人に泣きついて助けてもらっている有り様であり、

自分もそういう実例をいくつも見ている。

結局、創価学会の言う「生命力」というものは単にガラ悪く厚かましくふてぶてしい人間になる事を言っているだけであり、実際には困難を乗り越える事もできないものでしかないのだ。

 

 

理性よりも感情に訴える創価学会

仏教は本来、理性の教えであるという。
仏教学者の増谷文雄氏によれば、釈尊は弟子達に対して、
「静かに理性が理性に向かって語りかける」ような説法を理想の説法として教えていたという。
それが本来、仏教の在り方であったというが、
それに対して「真実最高の仏教団体」を標榜している創価学会はどうかというと、
幹部による会員への指導というと、とにかく体育会系のノリで、
罵声、怒声を含む絶叫型や感情を激しく突き動かすような、

理性よりも感情に訴えるような指導法であった。

仏教の源流を見極めれば、これ1つ取っても創価学会がいかに仏教から遠く離れた存在であるかが判る。

仏教用語を駆使していかにも仏教団体のように見せかけてはいるが、

その実態は仏教・宗教を偽装した営利企業である事が判るだろう。

感情を揺り動かすような激しい指導も、

営業成績アップを煽る企業の指導と同じなのだ。

静かに理性に向かって語りかけても、信者を道理に合わない事に意のままに動かす事はできない。

なぜなら、理性によって考えれば道理に合わない事に人は動かないからだ。

周知のように、創価学会の諸活動は仏法に照らしても、社会常識の面から考えても道理に合わないものばかりだ。

営業成績のように折伏成果を上げなければ、あるいは選挙戦で公明党のF票集めの成績を上げなければ罵倒されるとか、聖教新聞を1世帯で多部数購読しなければならないなどという不合理・非道理な事柄が仏法の名によって信者に強制されているのである。

これら不合理・非道理な諸活動は、理性で考えれば納得できるものでない事はすぐ判る事だ。

その為、創価学会としては信者を盲目的に意のままに操り動かす必要がある訳なのだ。

人は理性で語りかけられると理性によって冷静に考えられるが、

感情に訴えかけられると、冷静に理性的には考えられなくなり、

言われるままに盲目的に動いてしまいやすくなるのだ。

だから、創価学会は激しい激情的な言葉で人の感情を揺り動かすような指導をしているのである。

創価学会の目的は信者を組織拡大と権力拡大へとこき使い、

更に信者から資産を吸い上げる事にあるのだから、

その為の指導法としては理性よりも感情に訴える方が効果的だからである。

創価学会をまともな宗教ではなく、カルトや営利企業や詐欺団体だと思えば、

理性よりも感情に訴える幹部指導には合点がいく事だろう。

 

 

 

 

 

宗教家としての品性がない創価学会

創価学会と言えば、聖教新聞の、敵対者に向けた下品な罵詈雑言記事(近頃は以前よりも少なくなってはいるが)や、活動家への幹部の横暴な態度や、主に活動家とされる学会員のガラの悪さなどが有名であるが、とにかく創価学会は宗教家としての品格・品性がない、下品下劣な宗教である。

創価学会は常々、「庶民の宗教」を売り物にしてきたが、庶民の宗教であれば下品下劣であってよいという訳はない。

「世界最高の宗教の王者」を自認しているのなら、なおさら宗教家としての品格・品性が求められるのだ。

ところが創価学会は、その聖教新聞の大幹部達による紙上座談会では、

会長や副会長、全国青年部長や全国男子部長など創価学会の中枢にいる連中が

敵対者や脱会したかつての幹部に対して口を極めて汚い罵詈雑言を吐いているのである。

とても宗教団体の大幹部とは思えない下品下劣な姿を自分達の機関紙に晒しているのである。

創価学会は上品な語り方を「偽善だ」などと批判し、

感情を露わにストレートに出す事が真っ正直な生き方なのだというような事を言っていたが、少なくとも「世界最高に正しい宗教」だと自慢しているのなら、

たとえ偽善に見えようとも、感情を抑え言葉を選んで語るべきだろう。

それが宗教家としてのあるべき姿というものだ。

感情に任せて言いたい放題言う事が正しいのだと主張するのは

もはや宗教家を名乗る資格もないし、

その宗教には自分を抑制する力もないという事になる。

創価学会の品性のなさ1つを見ても、

創価学会が正しい宗教ではないという事が判る事だろう。

 

 

 

創価学会は開かれた宗教なのか

聖教新聞を見ると、創価学会こそ開かれた宗教であると強調し、

古びた迷信信仰や形式信仰・形骸信仰を批判し、

全ての宗教や思想がその思想的立場を超えて連帯し合って

世界平和に向かうべきだと主張していて、

いかにも創価学会こそが古い因習を打ち破り、

迷信信仰と形式・形骸信仰から脱皮した最先端を行く宗教であるかのように書き立てているのだが、

実際には創価学会の内部においては、迷信信仰と形骸信仰そのままの状態であり、

思想的連帯など考えもしないような一宗一派に凝り固まった偏狭な団体でしかない。

人間の手によって印刷した紙曼陀羅本尊に呪文のような言葉を唱えれば救われるとか折伏して信者を増やせば大功徳を得られるなどという旧態依然とした形骸信仰は勿論の事、財務など、創価学会に寄付金を出せば出すほど宿業を消滅する事ができるとか選挙戦で公明党の票を多く獲得すれば人間革命できるとか聖教新聞を販売拡張したり配達すれば福運が増すとか、そのような金集めも選挙の票集めも創価学会に都合の良い迷信信仰に仕立て上げている有り様であるし、

また近頃は、公明党への票欲しさに地域友好だと言って地域の祭りへの参加を黙認したりしているようだが、他宗教に対する謗法思想を捨てた訳ではなく、

今でも日蓮の「四箇格言」を持ち出して「謗法厳戒」とか言っている始末であり、

更には「創価学会の組織から離れると地獄に堕ちる」などと脅し、

脱会した人間には「裏切者」の烙印を押して、

それまでの「同志」から態度を一変させて敵対心を露わにする。

そんな創価学会こそ閉鎖的な閉じられた宗教でしかないのだ。

役に立たない幹部指導

創価学会では悩みなどがあったらとにかく幹部から指導を受けろと言われる。

進んで幹部指導を受けると「信心がある」と見なされ、幹部指導を受けないでいると「信心がない」などと貶されたりする。

自分が創価学会にいた頃も、地区幹部から「本部長以上の幹部から指導を受けて信心活動をしろ。大幹部から指導も受けないで信心してると自分の殻に閉じこもってしまって成長できないぞ」などと言われていたものだ。

ところが本部長以上の大幹部に指導を受けても、どんな悩みや相談に対しても

「もっと題目上げろ」とか「もっと折伏しろ」とか

「もっと学会活動しろ」「もっとFを獲れ」とか、そんなワンパターンの決まり文句しか言わない。

釈尊は人が抱えている苦しみに対して、「対機説法」と言われるような

相手の立場や状況に合わせて当意即妙に、様々な比喩を用いて教えを説いたというが、

学会幹部はどんな悩みに対しても結局は「題目上げろ」「学会活動しろ」などと何の役にも立たない決まり文句しか言わないし、言えないのだ。

勿論、題目を唱えたり学会活動して悩みが解決するのなら良いが、

実際にはそんなもので解決はしない。

解決しないから、悩める学会員は結局、本尊や創価学会を頼らずに

人に頼って迷惑をかけたりしているのだ。

そんな学会幹部から役にも立たない指導を受けるくらいなら、

犬や猿に指導を受けた方がまだマシだろう。

 

 

反論になっていない創価学会の反論

創価学会は今でも相も変わらず「法華経こそ釈尊の出世の本懐であり、

真実最高の法だ。その法華経を末法の衆生を救う為に一幅の曼陀羅として顕わされたのが日蓮大聖人であり、今末法では日蓮大聖人の教えを信じなければ謗法の罪によって不幸になる」などと、馬鹿の一つ覚えのように言い続けているのだが、しかし、さすがに近頃は近代仏教学による仏教の歴史的事実を全面的に無視し続けるのも具合が悪いと思ったのか、

最近では創価学会の機関誌『大白蓮華』に「仏教入門」シリーズを連載し、

そこに、近代仏教学による仏教の歴史を書き、

その上で、近代仏教学の立場からの「大乗非仏説」や「法華経は釈尊の直説ではない」という見解に反論を載せている。

その反論というのは次の通りだ。

①阿含経が文字による経典としては最も早く成立したと言うが、

それでも釈尊滅後200~300年も経っているから、

全てが釈尊の直説ばかりとは言えない。

②釈尊滅後すぐに弟子達が集まって釈尊の教えを確定したという第一次結集が行なわれ、その時結集された仏教思想が後の阿含経の原型となったと言うが、

この第一次結集には全ての弟子が集まった訳ではなく、

参加しなかった弟子も多かったと、阿含経自体に書いてある。

とすれば、その第一次結集に参加しなかった弟子達が、

釈尊の別の教えを口伝で後世に伝え、

それが後の大乗経典の原型になった可能性がある。

③最も早く文字として成立した阿含経には、

出家者向けの教えが中心に書かれてある。

釈尊は出家者の弟子達にも一般在家信者にも教えを説いた。

阿含経の内容を見れば判るように、

釈尊の説法は出家者に対する教えと在家者に対する教えに区別がある。

つまり、出家者向けの教えと在家者向けの教えがある。

しかし、阿含経には出家者向けの教えが殆どで、

在家者向けの教えは僅かしか残っていない。

阿含経にも書いてあるように、

釈尊在世の頃には、在家者の中にも優れた信者がたくさんいたのであり、

そのような優れた在家者に対して、釈尊が僅かしか教えを説かなかったとは思えない。

阿含経の原型が結集されたという第一次結集には

出家者だけが集まったから出家者向けの教えが中心になっているのは当然で、

その為に在家者向けの教えの殆どが捨てられてしまった可能性がある。

④以上のように、第一次結集に参加しなかった弟子達や、

釈尊在世中に釈尊から教えを受けた在家信者達が、

その教えを文字化しないまま口伝で後世に伝え、

それが後に大乗仏教運動によって文字化され、

大乗経典になったという可能性は充分にある。

⑤つまり、「大乗非仏説」と言われ、「釈尊の直説ではない」と言われている大乗仏典にも、釈尊の実際の教え、特に在家者向けの教えが脈々と伝えられている可能性は充分ある訳で、

近代仏教学が主張しているような「阿含経だけが釈尊の直説であり、

実際の教えに最も近い内容だ」という根拠は薄れるのであり、

大乗仏典にも釈尊の実際の教えが伝えられていると言えるだろう。

 

以上のような論点で、創価学会は近代仏教学の研究結果に対して反論し、

阿含経だけが釈尊の教えではなく、

大乗仏典にも釈尊の教えが伝えられている可能性があると主張し、

その結論として、法華経の思想内容にも釈尊の教えが入っている可能性があるから、法華経もまた釈尊の教えと言ってよいものであると断言しているのだ。

確かに創価学会が言うように、大乗仏典にも釈尊の教えが伝えられているという可能性はあるだろう。

だが、それはあくまでも可能性の領域でしかないのである。

ここで百歩譲って創価学会が主張しているような釈尊の教えが口伝によって後世にまで伝えられ、釈尊滅後500年以降に大乗仏教運動が起きてからそれらの口伝の教えが文字化されて大乗仏典として成立したと認めたとしよう。

しかしそれでも、創価学会が馬鹿の一つ覚えのように今まで言い続けてきた「法華経こそ釈尊の真実最高の教えであり、法華経以外の教えを信じると謗法の罪で地獄に堕ちる」という主張は成り立たないのである。

創価学会の反論を歴史的事実として認めれば、

確かに「阿含経だけが釈尊の直説だ」とは言えなくなるだろうし、

そしてまた大乗仏典にも釈尊の実際の教え、特に在家者に対する教えが入っているとは言えるだろう。

だが、それは逆に言えば、釈尊の教えは阿含経にも当然入ってるし、

大乗経典にも入ってるし、更に同じ大乗経典でも、法華経だけでなく、

他の阿弥陀経や般若心経や大日経等にも入っているという事になってしまうのであり、いずれにしても今まで創価学会が主張し続けてきた「法華経だけが釈尊の正法であり、この法華経以外は皆、謗法である」などという論法は使えなくなるという事だ。

つまり、創価学会の反論は、法華経だけが釈尊の正法であるとか、

真実最高の教えであるという事を証明するものではなく、

単に、阿含経だけが釈尊の直説ではなく、後の大乗経典にも釈尊の教え(特に在家者への教え)が伝えられている可能性があるから、大乗経典も釈尊の教えと言ってよいものだといった程度のものでしかなく、

そこには「法華経だけが釈尊の真実最高の法だ」とか

「法華経以外は皆、謗法である」と言えるものが何もないのである。

創価学会が反論するように、釈尊の別の教えが後世まで口伝で伝えられ、

それが大乗経典になったと言うのなら、法華経だけでなく他の般若心経とか阿弥陀経とか大日経といった諸大乗経典も釈尊の実際の教えだという事になるからである。

法華経だけに釈尊の真実最高の教えが伝えられたという論拠は、

創価学会の反論の中にはどこにもないからである。

要するに、これで判るように、

創価学会がいくら反論しようとも、結局、「法華経だけが釈尊の真実最高の法であり、それ以外は皆、謗法であり邪義であり、法華経を信じなければ地獄に堕ちる」という創価学会の十八番の論法は成立しないという事なのだ。

 

 

 

 

仏教には本来、小乗も大乗もない

そもそも釈尊時代には小乗仏教とか大乗仏教などという区分はなかったのであり、そのような呼び方をするようになったのは、後世、大乗仏教運動が起きてからなのだ。

釈尊滅後100年、200年と経つうちに、出家者の仏教教団は主に戒律や教義の解釈の違いから分裂を始め、いくつもの部派に分かれて行った。

それで、この時代を近代仏教学では部派仏教時代と言っているのだが、

この部派仏教時代は、出家者は釈尊の教えを哲学的に考察する、西洋哲学で言えばスコラ哲学化してしまい、その哲学的解釈の違いから部派の間で論争に明け暮れ、出家者の使命である所の、在家者への伝道布教を忘れ去ってしまい、堕落してしまったのだ。

そこで釈尊滅後500年頃に、そのような部派仏教を批判して大乗仏教運動が起きたのであり、これが大乗仏教の始まりなのである。そして、この大乗仏教運動の中から新しい仏教経典が次々と創られていったのだ。

 

しかし、「釈尊の教えに帰れ」という理念の元に始まった大乗仏教なのだが、

その大乗仏教にも問題点があった。

1つは、釈尊の教理を哲学的に考察する事に没頭し部派間で論争に明け暮れて

衆生救済をしなくなった部派仏教の教団を批判したのは良いが、

その部派仏教が依経としていた阿含経を小乗経典(少しの人しか救えない経典)と断じて捨ててしまった事だ。

阿含経の中には釈尊の実際の言説が多く残されているのに、

それを小乗教として捨ててしまったのだ。

そして代わりに自分達で新しい経典を創作していき、

自ら「大乗経典(多くの人々を救える経典)」だと主張していったのだが、

その内容は勿論釈尊の実際の教えではなく、あくまでも後世の大乗仏教グループによる作り話でしかなく、それを「釈尊の真実の教え」だとして広めていった事だ。

2つ目の問題点は、阿含経に収められている釈尊の言説には

現実的な苦に対する具体的な教えが説かれているのだが、

大乗仏教ではそれらは現実的卑近的で高遠な教えではなく、小乗の説に過ぎないと蔑んで、

現実的な問題を扱うよりも空想的・幻想的で壮大な、今でいえばファンタジーのような内容が多く、現実の苦に対する具体的な救済の法が説かれていないという事だ。

対機説法と言われる、相手の状況に合わせた釈尊の具体的な説法に対して、

大乗仏教では空想の仏や菩薩などに祈願したり呪文のような言葉を唱えるなど、

阿含経にある理知的な教えから迷信化へと後退してしまった事だ。

創価学会が「釈尊が説いた最高の法」だと宣伝している法華経も釈尊滅後500年以後に創作された大乗仏典であり、釈尊とは直接の関係がない経典なのだ。

つまり、日本では(中国でもそうだったが)、小乗仏教は劣っているとか大乗仏教が優れているなどというのはあくまでも大乗仏教側が勝手に言ってる事でしかなく、

釈尊は元々小乗だとか大乗だとかの区別はしていなかったという事なのだ。

大乗仏教は釈尊滅後に興起したものなのだからそれは当然だ。

 

 

 

 

近代仏教学による仏教史観

「法華経こそ釈尊の真実最高の法であり、この法華経以外の宗教・思想を信じると謗法の罪で地獄に堕ちる」というのが創価学会の十八番であった。

その根拠にしているのは、中国の天台智顗が立てた『五時教判』である。

智顗は仏教経典を全て釈尊の直説として捉え、

それらに法としての優劣順位をつけていった。

その結果、阿含経を最低の小乗経典と位置づけ、

法華経を最高真実の実大乗経と位置づけたのだ。

だが、この天台智顗の立てた五時教判説はあくまでも智顗が個人的に独断で想像して考えたものに過ぎず、歴史的根拠は何もない。

事実、明治時代以後の近代仏教学による歴史学的研究によって、

法華経は釈尊が直接説いたものではないという事が判明しているのだ。

歴史的事実として、最も早く仏教経典として成立したのは、

智顗が最低の小乗教と位置づけした阿含経なのである。

釈尊在世の頃のインドでは、宗教家の教えは文字にして残さずに、

記憶して伝えるという口伝による伝承が行なわれていて、

仏教でもその風習通りに行なわれ、

釈尊在世時にはその教えはまだ文字化されず、

経典は作られなかったのだ。

仏教経典が文字として成立したのは釈尊滅後200年~300年頃であり、

その時できた経典が阿含経だった。

阿含経以外の、いわゆる大乗経典ができたのは釈尊滅後500年以後の事だった。

だから法華経も釈尊滅後500年以後になってできたものなのだ。

ただ、最も早く経典として成立した阿含経であるが、

それでも釈尊滅後から200年~300年も後になってから文字化されたものであるから、それまでの口伝による伝承の間には、

その教えの内容が変化したり一部が失われたり、

あるいは新たに付け加えられたりしていると思われるので、

阿含経の内容が全て釈尊の直説とは言えない。

しかし、それでも釈尊滅後、500年以後になってからやっと作られていった大乗仏典よりは、はるかに釈尊の思想により近いであろうと、

近代の仏教学者は見ているのである。

 

 

 

創価学会の本尊はトラブル製造機

「この本尊に向かって題目唱えれば即身成仏する」と主張する創価学会だが、

未だ嘗て即身成仏した学会員を見た事がない。

熱心に学会活動に励んで不祥事を起こしたり金銭トラブル起こしたりと

様々な問題を起こした者はたくさん見てきたが、

仏の境地に至った者など見た事がない。

創価学会の本尊は戸田2代会長が言っていた「幸福製造機」どころか、

「トラブル製造機」だ。

口先だけの世界平和の使者

世界にはまだまだ多くの紛争地域があり、

多くの戦闘員や住民が犠牲になっている。

いつ果てるともなくこのような争いが続いており、

未だ世界は平和が訪れる事のない現状にあるのだが、

こんな時こそ、池田名誉会長の出番だろう。

この所、執筆活動で忙しいからと、

会員の前に姿を見せない名誉会長だが、

創価首脳部の連中が「池田先生はお元気で執筆活動されています」と言うのが本当なら、世界の紛争地域に出向いて和平交渉をするべきだろう。

何しろ名誉会長は「世界平和の使者」らしいし、

”命懸け”で世界平和の為に尽力しているそうなのだから、

今こそ名誉会長の出番だ。

ましてや、ノーベル平和賞をもらいたいのなら、

そういう危険な地域に行って和平への説得をする事だ。

とは言え、池田名誉会長はそういう危険な地域には行かないだろう。

自分の身に危険の及ぶような所には決して行かないからだ。

自分の身に危険が及ぶ恐れのない安全な所にしか行かないからだ。

安全な地域だけに行って、そこで著名人や識者と呑気に対談して

世界平和に貢献しているつもりでいるらしいのだが、

そんな事していてもノーベル平和賞はもらえない。

今までいくら世界平和の提言を発表してきたと言っても、

結局、真価が問われるのは

実際に紛争地域に行って和平交渉をしたのかという事だ。

口先だけなら何でも言えるが、

結局、池田名誉会長は口先だけで終わってる訳なのだ。

苦しみしか生じない創価学会の信心

釈尊は「思うがままにならない事を思うがままにしようとするな」と説いた。

人生においては、いくら努力しても思うままにならない事が多々あるものだ。

そういう思うがままにならない事を思うがままにしようとする事によって、

苦しみ悩みが生じてしまうのだ。

勿論、努力などによって思うがままにできるのならいいのだが、

どんなに努力しても思うままにならない事はある。

そんなどうする事もできない事をいつまでもどうにかしようとしても、

ただ苦しみ悩むだけでしかない。

それを無理してどうにかしようとすると

犯罪に走ったり、

果ては自殺や無理心中をしたりと、

破滅に向かってしまう結果になってしまうのだ。

そのようなどうにもできない事をどうにかしようとせず、

そのような苦しみの元への執着から離れよと説いたのが釈尊の教えなのだ。

それが仏教の基本思想なのだ。

ところが、仏教を名乗っている創価学会は、

その逆に、思うままにならない事を思うままにしろと主張しているのだ。

つまりそれが学会の言う所の

「不可能をも可能にする信心」とか

「この本尊に祈れば願いとして叶わざるなし」

というキャッチフレーズなのだ。

これなどは、思うままにならない事を

思うがままにしようとして、

更に人の我欲を煽り立て、

我欲に執着させている事になるのである。

創価学会が主張しているように

本尊に祈って実際に思うままになるのなら別に問題はないが、

創価学会の本尊にどんなに題目上げて祈っても、

願い通りにならない事は多々あるし、

願い通りにならない事の方が多いくらいだ。

それが実際の所なのだ。

それだけでなく、

創価学会では更に、財務など金集めでは

「財務に出せば出すほど福運が何倍にもなって返ってくる。

だから出し惜しみせず、精一杯の額を財務に出せ」と会員に迫り、

そこで「この信心は不可能をも可能にするんだから今こそ実証を示すために精一杯の金額を出せ」

と、更に欲を煽って金集めをするのである。

しかし、言われた通り精一杯の額を差し出しても、

勿論功徳の実証を示す事もできず、

その後、金に困って周りから金を借りまくって更に人に迷惑を掛ける結果になってしまうのだ。

熱心な学会員には功徳どころかそういう問題を抱えている者の方が多い。

それは当たり前の話であり、

紙の細工物に過ぎない創価学会の本尊にいくら祈ろうが、

不可能をも可能にするような功徳など出てくる訳もないのだから、

自分の全財産やそれに近いほどの金額を貢げば、

生活に困って人から借金しなければならなくなるのは当然の結果だからだ。

釈尊は、”苦”が生じる因縁は、思うがままにならないことを思うがままにしようとするからであり、そこへ執着するから「苦しみ」が生じると教えているのだ。

故に、「不可能をも可能にする信心」だとか

「財務に金を出せば出すほど何倍にもなって返ってくる」

などという創価学会の指導は道理に反するから仏法ではないし、

苦しみしか生じないのだ。

とにかく数字に拘る創価学会

とにかく創価学会は数字に拘っている。

折伏達成(本尊流布)の数、選挙戦での公明党のF票獲得の数、

聖教新聞の啓蒙(販売拡張)の数、会合への部員連れ出しの数、

同じく会合への部外者連れ出しの数、書籍販売割り当ての数、

それに題目の数にも拘り、塗り絵の題目表を配って題目の数を書き込ませている有り様だ。

とにかく数字の目標というノルマを課しているのが創価学会なのだ。

そして、ノルマの数字を達成できないと役職者は上の幹部から吊るし上げられ罵倒される事になる。

全く営利企業と同じなのだ。

それは創価学会が宗教を偽装した営利企業だからだ。

ちなみに、学会員の唱題は早口で有名だが、

それは題目を数多く唱えれば唱えるほど福運が付くと考えているからで、

それで数多く唱える為に早口になっているものと思われる。

ここにも創価学会の数への拘りが現われていて笑える話である。

活動中心主義の創価学会

創価学会という団体を宗教だとすれば、

要するに外面的な形にばかり囚われた、

心を失くした形骸宗教という事になる。

心のあり方というものを全く無視し、

ただ数多く題目を唱えれば救われるとか、

折伏して信者を増やせば宿命転換して幸福になれるとか、

聖教新聞の販売拡張数を伸ばせば福運が付くとか、

選挙で公明党の支持票を獲得すれば人間革命できるとか、

そこには外面的な活動ばかりが強調されていて

自分の心を省みるという内面の行が何もないのだ。

仏教は本来、自己の内面を省みるという内省の行が主体なのだが、

創価学会はただ外面の活動にばかりに向かっている。

それはもはや仏教とは名ばかりの

政治活動に明け暮れる政治団体か、

勢力拡大と金儲けの為の企業活動でしかない。

仏教の本質を知れば、

創価学会の活動中心主義が仏教ではない事を物語っている事が判る。

毒の言葉を吐く創価学会

創価学会は聖教新聞には敵対者への汚い罵詈雑言記事を書きまくり、

幹部などはまるで極道のようなガラの悪い暴言を吐いているが、

釈尊はガラの悪い暴言や汚い罵詈雑言は毒の言葉であり、

自分が吐いた毒の言葉は己に帰ってゆくと説いていた。

仏教を名乗る創価学会は仏教の開祖・釈尊の思想、仏教の根本思想など全く無視して、

毒の言葉を吐き続けて、それで「創価学会こそ最高の仏教だ」などとうそぶいているのだから呆れるしかない。

 

 

創価学会と日蓮正宗の不毛な泥仕合

日蓮正宗は創価学会のコピー曼荼羅について「ニセ本尊の害毒で不幸になる」と批判し、創価学会は日蓮正宗総本山の板曼荼羅の大本尊を「謗法の地にあるから拝んでも功徳はない」と貶して泥仕合を続けているのだが、

本来の仏教からすれば、日蓮正宗や創価学会の本尊が本物だろうと偽物だろうと、どちらにしてもそんな人間が作った細工物に仏の生命など存在していないのである。

たとえ、その板曼荼羅の大本尊が宗祖・日蓮が直接造ったものだとしても、

板や紙の本尊なるものに本仏などいないのである。

以前にも書いたが、仏とは事物への執着から離れた境涯にあるのだから、

板曼荼羅や紙曼荼羅の物体に宿ったりはしないのである。

スピリチュアル風に言えば、

もし日蓮の生命が曼荼羅本尊に宿っているとすれば、

それは曼荼羅に執着している地縛霊という事になってしまうだろう。

「こっちの本尊が本物だ」とか「こっちの本尊の方が功徳がある」などと言い合いしていてもそれは全く不毛な泥仕合でしかないのだ。

「一家和楽」ならぬ「家庭崩壊」の信心

以前にも書いたが、

創価学会が折伏の時に掲げる功徳の1つに「一家和楽の信心」がある。

しかし、そう言ってる創価学会に一家和楽の家庭を築いている学会員は少ない。

それは当たり前の話であり、

学会員は熱心になればなるほど学会活動に追われるようになり、

その為、家庭を顧みなくなり、

夫婦親子間の仲が悪くなり、

家庭内別居したり離婚したり親子で絶縁したりと、

家庭崩壊していく学会員が多くなるからだ。

学会活動しても功徳などあるはずもなく、

逆に家庭を疎かにするのだから、

家庭崩壊してゆくのは当然の結果なのだ。

本尊ではなく人に頼る学会活動家

「題目をしっかり唱えていれば必ず御本尊が助けてくれる」

「この御本尊を心から信じ抜けば、どんな人生の試練に遭っても、

必ず御本仏が助けてくれる」

というのが創価学会幹部や活動家のセリフなのだが、

そんなセリフをいつも自信満々に確信に満ちた態度で言っている活動家には、

借金で困ってる連中が多い。

そして、いつも自信満々に本尊の功力を力説している当人が、

本尊や創価学会ではなく、自分の部員に「金貸してくれ!」と頼ってくるのである。

自分が男子部員だった頃、そういう地区幹部や支部幹部の活動家が多かった。

結局、日頃、本尊や本仏の功力を自信満々に言っていても、

本尊も本仏も頼りにならず、人に頼っているのである。

つまりは本尊の功力だ、本仏の功力だと言っていても、

そのようなものは全く頼りにならないという事なのだ。

それは創価学会が言ってるような「信心が足りないから」なのではなく、

そもそも、創価学会の本尊にそんな力がないからなのだ。

「本仏の生命が宿っている、宇宙の根本法を体現した御本尊」だと言った所で、単に人間が作った細工物でしかないのだから、そんなものをいくら信じ切って題目を唱えた所で、「不可能をも可能にする」功徳など現出する訳もないのは当たり前の話だからだ。

しかも、その上、創価学会では会員は様々な名目で創価学会に金を取られているのだから、金に困るようになるのも当然の話なのだ。

創価学会は名誉欲の塊

聖教新聞の記事には連日のように

池田名誉会長がどこそこの国の大学から名誉教授を授与されたとか、

名誉博士号を与えられたとか、どこかの国からは平和賞を贈られたとか、

そんな事ばかり自慢たらしく書きまくっているが、

このような世間的名声、世間的名誉を欲しがり、

それを自慢げに誇っている池田名誉会長は

もはや宗教家とは言えない俗物中の俗物であり、

創価学会もまた宗教ではなく俗物団体でしかないのだ。

それは名誉会長とかつて対談したトインビー博士の孫娘であるポーリー氏が、

名誉会長と対談後、イギリスのガーディアン誌に、

池田名誉会長の印象について、

「頭の先から靴の爪先まで世俗的な人物に見えた。

彼を宗教家と思う者は殆どいないだろう」

とインタビューに答えていた事で明らかだ。

それら授与されている名誉称号は金で買ったという話があるが、

金で買おうが買うまいが、いずれにしろ、

そんな世俗的名誉をもらったからといって

自分達の機関紙に自慢げに書きまくる事自体が宗教家として、

そして宗教団体として恥ずべき事だ。

名誉会長が世界の著名人と会って

中身のないお世辞だけの対談をしてるのも、

結局は何らかの名誉称号をもらうのが目的なのであろう。

創価学会としてはノーベル平和賞を狙っているのだろうが、

ただのポーズだけではノーベル平和賞はもらえない。

もし名誉会長がノーベル平和賞を授与されるとしたら、

その時がノーベル平和賞の権威が地に落ちる時になるだろう。

いずれにしろ、今まで授与されている数多くの名誉称号は

ゴミのようなものばかりであり、

肝心のノーベル平和賞は勿論、

宗教界のノーベル平和賞と言われているテンプルトン賞ももらってない。

テンプルトン賞はライバルだった立正佼成会の庭野日敬会長が受賞していて、

他の宗教家から差をつけられている有り様だ。

著名人と会ってお世辞を言うだけでノーベル平和賞をもらえると思っているなら、考えが甘すぎるというものだ。

世界平和に役立たない池田名誉会長

学会員は池田名誉会長こそノーベル平和賞に相応しいとか、

その内必ずノーベル平和賞を受賞するなどと言っているのだが、

池田名誉会長が実際に世界平和に貢献したのかというと、

何もしていないのである。

確かに世界の著名人と会談して握手して回ってるが、

ただそれだけの話なのだ。

その会談の内容もただ相手の著名人を褒めちぎっているだけで、

何ら世界平和の為になるような対話をしていないのだ。

要するに、世界平和に貢献しているというポーズだけでしかなく、

単なる売名行為だと言われても仕方ないのだ。

そんな事していてもノーベル平和賞はもらえない。

紛争地域に行く事もなく、安全な地域だけを回り、

そこで著名人にゴマをするような話ばかりしていても、

世界平和には何の役にも立たないからだ。

裏切り者続出の創価学会

鉄の団結を自慢する創価学会だが、

その学会からは裏切り者が多数出ている。

それも古くからの大幹部が続々と裏切り者になり、

敵対者となっていった。

この裏切り者の元大幹部達を、

創価学会は「極悪人」等と罵倒しているが、

「世界最高に正しい」という創価学会で信心してきたのに

裏切り者の極悪人になってしまったのはどういう訳だ?

裏切った元大幹部達が極悪人だというのなら、

結局、創価学会の信心では人間革命もできなかったという事を

計らずも証明してしまったという事になる訳だ。

創価学会に「哲学」はない

創価学会は「我々の仏法こそ最高の生命哲学だ」と自画自賛しているが、

その内容はと見れば、迷信じみた形式信仰と世俗の金儲けと権力志向を信仰や哲学に偽装しているだけの話でしかない。

多くの学会員もそんな低俗な話を疑う事もせず鵜呑みにしているだけなのだ。

例えば「題目上げれば全てうまくいって救われる」「折伏して創価学会を拡大すれば宿命転換できる」「選挙戦で公明党のF票を取れば人間革命できる」等々、

真理とか哲学とは何の関係もない迷信信仰やセールス活動や選挙活動でしかないものばかりだ。

「哲学」だというのなら、まずは何が正しいのか、どこが道理に合ってるのかと、

徹底的に思考する必要がある。それが哲学だ。

だが、創価学会は有無を言わさず上から命令して強制してるだけであり、

信者の学会員も何も考える事なく盲信し狂信して言われた通りに従っているだけの話なのだ。

「哲学」を名乗るのなら、頭から信じ込むのではなく、

論理的に考察すべきなのだ。

頭から丸呑みに信じるだけなら、それは哲学ではなく、

単なる迷信信仰でしかないのだ。

反省しない創価学会

創価学会には自己を省みるという反省の行が何もない。

自己の悪や罪や過ちを反省懺悔するのは

仏教にもキリスト教にも共通してあるものだ。

それに対して創価学会はただ「前進あるのみ」とか

「勝って勝って勝ちまくれ!」とか「大勝利!」とか

「闘争しろ!」「戦え!」とか、

戦う事や勝つ事ばかりを信者に号令を掛けているのみだ。

創価学会がこんな団体だから、

盲信狂信の学会員にはガラの悪い連中や非常識な連中が多いのである。

仏法は「魔法の杖」ではない

創価学会は「この信心をすれば病気が治る、金持ちになる、

生活に困らなくなる、出世する、仕事で成功する、

何でも願いが叶う」等々と主張して現世利益を強調しているが、

本来仏教は現世利益信仰ではなかったのだ。

釈尊が説いた教えは苦の克服が目的であり、

苦を滅する為に我欲への執着から離れよという思想であった。

創価学会が宣伝している功徳というのは、

結局自分の願望欲望を実現することであり、

それは我欲への執着に他ならない。

創価学会が信奉しているのは日蓮仏法だから釈迦仏法は関係ないなどと言ってるが、元々の釈尊の教えを無視するのなら、それはもう仏教とは言えないだろう。

日本の仏教は大乗仏教で釈尊の本来の教えとは違ったものになってしまっているが、それでも基本思想として我欲への執着から離れるという根本思想が現存しているのであり、だから自分も現在の日本仏教も仏教と認めているのだ。

しかし、創価学会は「釈迦仏法は死んだ法でしかない」などと貶して完全否定しており、もはや仏教とは言えない団体になっている。

欲望の全肯定が創価学会であり、それは釈尊の教えの真逆の考え方でしかないのだ。

例えば、創価学会は「この信心をすれば病気も治る、仕事もうまくいく、金持ちになれる、何でも願い通りになる」などと我欲を煽るような事ばかり主張しているが、

釈尊は、この世は無常の世界だから良い事もあれば悪い事もあると言っているのであり、実際、我々の人生では良い事もあれば悪い事もあるのは事実だ。

そして、どんなに気をつけていても悪い事に遭遇するものだし、

悪い事を避ける事ができない場合もあるものだ。

そういう悪い事に遭遇した時、どのような心の持ち方で苦しみを滅するべきか、そしてどのような心で生きるべきかを説いたものが本来の仏教なのだ。

創価学会が宣伝してるような自分の欲望を叶える事が目的ではないのであるし、そもそもこの人生では自分の欲望を全部叶える事など不可能だ。

必ずと言っていいほど自分の思い通りにならない事はあるものだ。

そのような時、どういう気持を持って苦しみを克服してゆくべきかと説いているのが釈尊の教えなのであるし、仏法なのだ。

仏法とは創価学会が言うような呪文のような言葉を紙切れの本尊に唱えれば自分の願い通りになるなどいう魔法の杖みたいなものではないのである。

 

 

信仰・宗教の目的と役目

学会幹部は学会員が病気にかかったりすると

「信心で治せ!」と指導する。

これは体育会系の連中が病気やケガの者に対して

「根性で治せ!」と言うのによく似ている。

要するに創価学会という団体は、

論理というものがない所なのだ。

健康面の常識をも無視して「寝るな、食べるな、休むな」とか、

「食事は流し込んで、学会活動に走り回れ!」と会員に無茶苦茶な指導をし、

それで体調が悪くなると「お前の信心がなってないからだ!」「信心で治せ!」などと指導と称して罵倒するのだ。

学会幹部は論理的思考のできない連中でしかないという事だ。

病気が信心で治るのなら、医者や薬はいらないのである。

病気を治すのが宗教の役目ではないのだ。

人としての生き方を説くのが本来の宗教の役目のはずであり、

選挙で勝ったり闘争したり出世したり金儲けする事ではないのだ。

正しい生き方とは

創価学会の大幹部は「必死になって学会活動しなければ救われない」と主張する。

だが、善なる生き方、清く正しい生き方を日頃からしていれば、

それこそが正しい生き方であり、

功徳善根を積む生き方なのだから、

別に学会活動などする必要はないのだ。

正しい生き方とは、

過分な欲望を追い求めない、

人に親切にする、人に迷惑をかけない、

そういう生き方が正しい生き方であり、

善い生き方なのだ。

学会大幹部が言うような、

創価学会に入会して何百万遍も唱題しなければならないとか、

何人も折伏して信者を増やさなければならないとか、

学会に大金を寄付しなければならないとか、

公明党支援の選挙戦では数多くの票を集めなければならないとか、

寝る間も惜しんで学会活動に没頭しなければならないとか、

そこまで一生懸命やらなければ宿命転換できないとか

幸福になれないとか救われないなどと言うのは、

結局、創価学会は「世界最高に功徳のある宗教ではない」と言っている事と同じなのである。

そもそも、学会活動などは功徳善根を積む事とは無関係でしかないものだ。

だから学会活動をしなかったからといって、

別に地獄に堕ちるかも知れないと怯える必要もないのである。

正しい生き方というのは特別の行をする事ではないし、

ましてや選挙の票集めをする事でもない。

普通に清く正しく生きていればそれが正しい生き方なのである。

それが釈尊の教えであり、本来の仏法なのだ。

 

 

創価学会の本尊考③

創価学会は「日蓮本仏論」を立て、日蓮こそが本仏なのだと主張している。

そして、最初に仏法を説いた釈尊は本仏の日蓮がこの世に出現する前の露払いであり、本仏に対する迹仏(しゃくぶつ)でしかないと主張しているのだが、

それについて、現在は絶版になっている創価学会の教学書『折伏教典』には次のように書いてあった。

「釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない」

「われわれは釈迦仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」

「日蓮聖人が末法の御本仏であらせられる」

「釈迦等のとうていおよぶ 分際ではない」

「釈尊出世の本懐である法華経でさえも末法の今日には まったく力はない」

「(創価学会の)この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は基本的に幸福になれないのである。」

「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立たないしろものである。これを使用するから生活に破錠をきたすのは当然である。」

こんな調子で釈尊を貶し、日蓮こそが本仏だと主張しているのだが、

果たして日蓮が釈尊をも超える本仏という境地に至っていたと言えるだろうか。

本来、仏の境地とは、何ものにも囚われない境地であり、

あらゆる執着から離れた境地を言うのである。

日蓮は法華経だけを絶対視し、他の経典を依経にしている宗派を排撃していたのだが、これは法華経原理主義とも言える、法華経に執着した姿であり、

とてもあらゆる執着から離れた仏の境地とは言えない。

ましてや板曼荼羅や紙曼荼羅の本尊を造ってそれを拝ませるというのは、

これもまた事物へ執着させるという行法を行なっていたのだから、

本来の仏の行道とは言えない。

他宗排撃については特に、他宗派の出家者を打ち首にしろと鎌倉幕府に迫るなど、仏教者とは思えない過激な言動をしており、

このような日蓮が仏の境地であるとか、ましてや本仏だなどととても言えたものではない。

法華経という1つの形式に拘り、相手の立場を認めない頑なさと偏狭さと攻撃性による折伏行を行なっていた日蓮は、

要するに排他的で独善的で更には狂信的な面も併せ持っていたと言えるのである。

故に、そのような仏の境涯に達してもいない日蓮が、

いくら「宇宙の根源の法を一幅の曼荼羅に顕わした」と言っても、

それは本仏でもなければ宇宙根源の法の体現者でもないのである。

その本尊は要するに、単なる人間が造った細工物でしかないのだ。

繰り返すが、仏とは本来、事物への執着から離れた者の事を言うのである。

釈尊は亡くなる時、「この世は無常であり、絶対的なものは1つもない。

我が遺体にも執着を持つな」と弟子達に言った。

そのような事物への執着から離れている仏が、

板や紙の曼荼羅に宿り続ける事などあり得る訳がない。

もしも曼荼羅本尊に仏と呼ばれる者が宿っているとすれば、

それは仏ではなく、事物に執着している地縛霊・憑依霊という事になるだろう。

故に、すでに執着から離れて解脱している仏は、

人間が勝手に造った細工物にはいないのである。

つまり、日蓮が造立したという曼荼羅本尊には仏などいないのである。

ましてや、創価学会の本尊などは機械でコピーしただけの代物でしかなく、

このような人間が造った細工物に仏や神などはいないのである。

「宇宙根源の一法を顕現した」という創価学会の本尊には

本仏もいないし宇宙根源の法もなく、

ましてや戸田城聖2代目会長が言っていた「幸福製造機」でもない、

ただの板切れ紙切れでしかないのだ。

創価学会の本尊考②

創価学会の本尊には本仏・日蓮の生命が宿っているというのが創価学会の教義だ。そして、その本尊の紙曼荼羅に題目を唱えて祈れば何でも願いが叶い、人間革命を達成して、崩れることのない絶対的幸福境涯になれるのだそうだ。

しかし創価学会が仏教だと言うのなら、創価学会のその教義は仏教としてはあり得ない話なのである。

まず、本来の仏教で説く仏というのは、あらゆる執着から離れた境地を言うのである。

仏教の開祖・釈尊は物事への執着を捨て、

それによってあらゆる煩悩から解脱する事ができたのであり、

それを仏の境地というのだ。

あらゆる物事への執着から離れた者が仏なのだから、

そういう仏の生命とやらが板曼荼羅や紙曼荼羅の本尊という物体に宿る訳がないのである。

もし本当に創価学会が言うように日蓮の仏の生命が紙曼荼羅本尊に宿っているとしたら、

それは日蓮が本尊という物体に執着している事に他ならない訳なのだ。

物体に執着して宿っているようなものは仏ではなく、

スピリチュアル風に言えば憑依霊という事になってしまうだろう。

だから、仏教の立場で言えば、創価学会が主張しているような

仏の生命が本尊に宿るなどという現象はあり得ない話なのであり、

そんな事を主張するようなものは仏法ではないのである。

創価学会の本尊考①

創価学会は、日蓮が建立した南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊こそが

宇宙根源の法を体現し、形として顕わしたもので、

戸田城聖2代会長が言う所の「幸福製造機」であり、

この本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えれば、

宇宙根源の法と合致して幸福になれると主張し、

逆にこの本尊を受持しない者や、信じない者、

あるいはこの本尊を粗末に扱う者は、

謗法の罪により不幸になり地獄に堕ちると主張している。

だが、その本尊なるものは単なる人間が造った板切れ、紙切れに過ぎないのであって、そこには本仏が存在しているという客観的根拠など何もないのである。

ましてや近年は、創価学会が長年に渡り宇宙根源の法の当体として崇めてきた日蓮作とされる弘安2年建立の本門戒壇の大本尊は実は日蓮の作ではないという事が判ってきており、

しかも、更にその後、創価学会はその日蓮正宗総本山の大本尊を「謗法の地にあるから」という理由で功徳のない本尊だと宣言し、

それ以外の本尊は皆功徳のある本尊だと言い始めている有り様で、

創価学会の都合で「宇宙の法」がコロコロ変わるという無節操ぶりなのだ。

こんな創価学会の勝手な都合で変わってしまうようなものが「宇宙根源の法」である訳ないのは言うまでもない事だ。

仏教ならぬ阿修羅教

「我々こそ慈悲の行を実践している唯一の仏法教団である」と自画自賛ばかりしている創価学会だが、試みに、聖教新聞を開いてみれば、

「闘争しろ!」「戦え!」「極悪を責めて責めて責め抜け!」「戦わざる者は去れ!」「闘争する事が仏法だ」等々と、

とにかく敵対者や批判者に対する罵詈雑言が凄まじく、

そこには慈悲とか愛というものが全く感じられないし、

憎悪の念しか感じられない。

創価学会が仏教だというのなら、

本来、敵対者に対しても慈悲や愛の心を持って感化してゆくのがその本分であり使命のはずだ。

ところが創価学会は、「我々こそ慈悲の行を実践している教団である」とうそぶきながら、敵対者を散々にこき下ろし悪口雑言し、

しかもその上、信者に対して闘争心を煽り、憎悪を掻き立てているのである。

学会員の中でも特に男子部や男子部上がりの壮年部にはガラの悪い連中が多かったが、これだけ闘争心を煽られていればガラが悪くなるのも当然だ。

よく聖教新聞に「世界の識者が学会を讃嘆」という自画自賛記事が載っているが、その世界の識者達も聖教新聞の罵詈雑言ぶりを読んだら呆れ返ることだろう。

この事からも創価学会は仏教ではなく阿修羅教である事が判るだろう。

題目と学会活動を免罪符にする創価学会

創価学会は「我々には本尊を受持して唱題するという金剛宝器戒という戒律だけが唯一の戒律であり、それ以外の戒律は不要である」とうそぶいているが、

戒律不要という考え方があるから、

特に盲信的狂信的学会活動家には

自己を正すという意識も反省するという意識もなく、

ガラの悪い連中や大酒飲みや、人の金を盗む者や、

厚顔無恥な者やらと、自己を正そうとする人間が少ないのである。

とにかく、他に対して勝てば良い、

その為に闘争しろとか戦えと叫ぶ創価学会には、

自己を正すとか、反省する、自己を省みるという意識がなく、

ただ題目を唱えているから正しいのだ、学会活動をしているから正しいんだ、

それさえやってれば全て許されるんだという意識しかなく、

反省もできないし、厚顔無恥でいられるのだ。

北朝鮮にそっくりな創価学会

創価学会は「我が創価学会こそ人間に光を当てた、

どこまでも人間を主人公にし、主体にした宗教であり、

真の自由に満ちた宗教である」等と自画自賛しているのだが、

その創価学会こそ、言いたい事も言えない軍国主義体制か

北朝鮮のような宗教なのだ。

少しでも創価学会を批判したり創価学会の教義の矛盾点を突いたりすると、

吊るし上げられ罵倒されるからだ。

そこには自由はない。

人間の為の宗教ではなく、

池田大作個人と創価学会の組織こそが最優先される団体だからである。

創価学会は仏教にあらず

自分の現在の思想的基盤は

原始仏教つまり初期仏典の阿含経に書かれてある釈尊の思想にある。

自分はこの原始仏教に書かれてある釈尊像やその思想を本来の仏教だと思っている。

しかし、だからと言って、釈尊の時代よりもかなり後世に成立した大乗仏教を全て偽仏教と言って全否定するつもりはない。

確かに「大乗非仏説」と言われているように、

大乗仏教は釈尊の実際の教えがない創作仏教であり、

釈尊の思想から大きくかけ離れてしまっている面があるのは否めないが、

それでも、その根底には釈尊の思想が流れていると考えており、

大きく形は変わってはいるが、仏教だと認めている。

それは仏教の説く慈悲の精神であったり、執着から離れるという教えであったりと、形は変わってはいても、その底流に釈尊の思想が続いていることが認められるからである。

だから自分は現在の日本の大乗仏教の多くを仏教として認めているのだ。

だが、日蓮に関しては少し考え方が違う。

日蓮は同じ日本仏教の中でもその排他的な過激思想が異端であり、

正統な仏教思想とは言えない面があるからだ。

そして、その日蓮の思想に頑なに固執して日蓮本仏論を立てた日蓮正宗も

正統な仏教とは認められないし、

更にその日蓮正宗を利用して仏教の名を貶めるような

狂乱的とも言える非常識な活動を展開した創価学会に至っては、

仏教の範疇に入れることさえ拒否したいほどの悪質商法化した悪辣な集団であり、

到底、仏教とは認められないし、認めない。

創価学会は日本の宗教史上の一大汚点だと言っても過言ではないのだ。

 

 

創価学会はカルトか営利企業か詐欺団体か

インターネット上で反創価学会の立場に立っている人達の創価学会についての認識には種々あるようだ。

創価学会を一応宗教だとは思ってるがまともな宗教ではないカルトだと考えている人や、

宗教を装った営利企業、あるいは宗教ビジネスだと考えている人や、

同じく宗教を装っているが、営利企業ですらない詐欺団体だと考えている人など、様々だ。

自分は一応、カルトや営利企業、悪質商法という表現を使っているが、

しかし、それについて言葉の定義を巡って議論したり論争する必要はない。

創価学会はカルトでもあり営利企業でもあり宗教ビジネスでもあり詐欺団体でもあるからで、

いずれにも当てはまるからだ。

とにかくまともな宗教ではない団体が創価学会という事だ。

 

 

 

人の信仰心を利用する創価学会の実態とは

自分は信仰心は否定しない。

信仰心は人間の持つ自然な感情であり、

何か目に見えない存在への畏敬の念と

生かされていることへの感謝の念が

自然な形で現われたものが信仰心だと言えるのではないかと思われるからだ。

そして、その信仰心は何も宗教に限定されたものではなく、

宗教であろうとなかろうと、自分の心の拠り所となるものが信仰の対象となるのであって、俗に「イワシの頭も信心から」と言われるように、

自分が信仰の拠り所とするものは自分で決めればよいのである。

自分が自然に信じられるもの、心の拠り所にできるものが信仰となるからである。

だから、この信仰の対象は本来、他から強制されたり指示されるべきものではないのだ。

特に日本では信仰の自由が保証されているのだから、

何者かによって強制される謂われはないのである。

ところが、創価学会は例の「謗法思想」を持ち出して

「折伏」という仏教思想では異端とも言うべき布教方法によって、

創価学会への信仰を強制してくるのであるが、

これなどはそもそも信仰心と言えるようなものではないのだ。

自然な形の信仰なら異論はないが、創価学会の場合は、

純粋な信仰ではなく、信仰心を利用した営利活動だというのが正確な表現になるからだ。

つまり、創価学会は人の信仰心を利用した営利企業であって、

まともな宗教ではないのである。

勿論、歴史的に古い既成宗教であっても、

あるいはまともな宗教と思われる教団であっても、

その運営においては、営利を追求しているようなものもあるだろう。

例えば、寺社などで売られているおみくじの類いなどは

信仰そのものというより、

信仰心を利用した営利活動だと言えるものではある。

宗教というものは真理そのものというよりも、

あくまでも人間によって運営されている組織であるため、

そこに人間臭さが現われてくるのであって、

それが宗教の金儲け主義とか堕落とかによって現われてくると言えるのだ。

だから宗教自体を信仰そのものとは考えない方がいいのだ。

一般的な宗教であっても、あくまでも人間が運営しているものなのだから、

そこには欠陥なり堕落なり逸脱なりがあって当然だからだ。

それを完全無欠な真理そのものとして信仰する必要はない。

ましてや創価学会はその活動形態を見れば判るように、

信仰というよりも営利活動であり、

あくまでも創価学会が儲けるための組織であり活動であるからだ。

だから創価学会の信仰はあくまでもカムフラージュであり、

その実態は営利を追求する企業なのであって、

宗教ではないのである。

頼りにならない「信心の確信」

学会員以外の部外者が病気になったり怪我をしたり、生活が悪くなると、

「それは創価学会で信心しないからだ」と学会員は短絡的な批判をし、

創価学会への入会を押しつけてくるのだが、

そう言ってる学会員も病気がちだったり事故を起こしたり事故に巻き込まれたり、家庭内の問題や生活に困って借金トラブルを抱えていたりと、

様々な問題、トラブルを抱えている有り様だ。

それについて創価学会は「たとえ人生の問題や諸難に遭遇しても、この信心をしていれば悠々と乗り越えていける」などとも言っているのだが、

実際は、問題やトラブルに直面すると慌てふためいて人を頼ってばかりで、

悠々と難を乗り越えるどころではない学会員の方が多いくらいだ。

口先では「信心の確信」とやらで、どんな問題に遭遇しても不動心でびくともしないかのような自信満々ぶりをアピールしていても、

実際に問題に遭遇するとそんな「信心の確信」などはどこへやら、

人を頼って右往左往しているという、その程度のものなのだ。

地区や支部の役職者に多い金銭トラブルも、そんな学会員の姿が如実に現われたものだと言える。

結局、口先では本尊を信じ切っているかのように発言していても、

本尊を信じ切れないから人を頼ってしまうのだ。

それは当然と言えば当然の話で、創価学会の本尊というのは人間が造った単なる紙切れに過ぎないのだから、

実際に仏の生命が宿っているなどという超常現象など起こり得る訳もないのだ。

だからそんな紙切れの本尊を信じ切ったとしても、多くの場合は奇跡的な功徳の実証など起きることもなく、

結局学会員は本尊ではなく人を頼らなければならないというオチになってしまうのだ。

学会員の役職者に特に金銭トラブルが多いというのがその現われなのである。

謗法思想は宇宙の法則にあらず

創価学会は未だに「謗法」思想を持ち出してきて自分達の正当性を主張し、

「謗法厳戒」がいかにも仏教思想の中で最も重要な教義であるかのように喧伝しているのだが、

元々、インド仏教には謗法思想なるものは存在していないし、

創価学会が依経にしている法華経にも謗法思想はないのである。

インドから数多くの仏教経典が入ってきた中国では

あらゆる仏教経典を釈尊の説法として捉えていた為、

多種多様な内容の経典に優劣を付ける必要から教相判釈という経典のランク付けが行なわれたが、それでも謗法という考え方は存在してなかったのである。

謗法思想が現われたのは仏教が日本に入ってからで、特にそれを強調したのが日蓮なのだ。

つまり、謗法思想は元々仏教にはなかったものであり、日本で特に日蓮が言い出した事であって、仏教の最重要な教義でもなく、

従って、創価学会が言うような宇宙の根本法則などでもないのだ。

それをまるで宇宙の絶対的な法則であるかのように誇大な表現をし、

謗法を犯すと仏罰が下って地獄に堕ちるなどと脅しの道具に使っているのだ。

今までそんな事も知らずに謗法などという作り話に縛られ、人生を束縛されて生きて来たという訳なのだ。

所詮、謗法思想なるものは宇宙の大原理などというものではなく、

勢力拡大の為の方便でしかないのだ。

創価学会の成果主義

学会員の中には「あいつは人の折伏の成果を横取りした」とか

「あいつに聖教新聞啓蒙の成果を取られた」などといって、

学会員同士で折伏や新聞啓蒙の成果を取ったの取られたのと争い、

仲が悪くなっている者もいる。

これなどは創価学会が折伏にしても新聞啓蒙にしても、

全て成果主義で会員に競争させているからである。

その為、会員も成果の奪い合いになってしまうのだ。

これは最早、宗教と呼べるものではなく、

営業成績を営業マンに厳しく問う営利企業と同じだ。

「折伏は慈悲の行であり、人を救う行法である」などと、

いかにも崇高そうな言葉で言っているが、

所詮は信者を増やし、新聞を販売拡張して金儲けする営利企業なのだ。

ただ、それを宗教的な衣を付けてごまかしているだけの話なのだ。

小説『人間革命』に、「折伏等の成果主義に走ったのは、一部の末端幹部の名聞名利を求めた成果主義によるものであった」という箇所があり、

それに続けて、創価学会は成果主義を指導した事は断じてないと書いてあったが、実際は創価学会そのものが信者に成果主義を押しつけているのであり、

成果主義で信者を暴走させているのである。

仏教の原点から創価学会を見れば、

創価学会は宗教ではなく仏教でもなく営利企業だという事がよく判る。

学会員の罪は創価学会の責任

創価学会の主張によれば、人の罪はその人個人の所為ではないのだという。

人が罪を犯すのは、間違った宗教を信じている事が原因なのだという。

つまり、人が罪を犯すのは、その本人の罪ではなく、

その信じている宗教の所為だというのだ。

そんな事が『人間革命 第10巻』に書いてあったが、

その理屈で言えば、もし人が殺人を犯したとすれば、

それはその本人が殺そうと思って殺したのではなく、

間違って信じていた宗教の影響を受けて殺したという事になるのだろう。

それでは、「世界最高の正法」と言って憚らない創価学会においても、

信者が犯罪者になったり幹部が不祥事を起こしたりする事がよくあるのだが、

創価学会の理屈で言えば、創価学会の所為で犯罪行為をしてしまったり不祥事を起こしてしまったという事になるはずだ。

つまり、犯罪行為や不祥事を起こしてしまった学会員が悪いのではなく、

信仰していた創価学会そのものが悪いという事になるはずだ。

実際、学会員には犯罪者が多いというのは事実であり、

ニュースや新聞で報道されないだけで、犯罪者の中には学会員が多いのはよく知られている事だ。

しかしそれは当然とも言える事で、

創価学会では常に「闘争しろ!」「勝って勝って勝ちまくれ!」「何が何でも勝て!」「執念を持て」等と信者の闘争心を煽っており、

ただただ勝つ事だけを勝利する事だけを信者に求めている。

そこには自らを省みるという反省の教えが全くないのである。

その為、学会員(特に活動家)には反省のできない者が多いのだ。

何しろ創価学会が闘争心と勝つ事だけを信者に要求し、

反省する事を全く教えないのだから、

反省のできない学会員(中でも活動家)が多いのは当たり前だと言える。

そういう意味では、創価学会が言う「人の罪はその本人の責任ではなく、信仰している間違った宗教の所為」というのは確かにその通りなのだ。

創価学会のような、

反省する事を疎かにし、

勝つ事や闘争する事ばかりを信者に要求する宗教を信じていたら、

犯罪や不祥事を起こしてしまう信者が続出するのは当然の話だ。

現代では通用しない創価学会の業思想

創価学会は生まれ変わり(輪廻転生)における業思想を次のように説明している。

人の幸不幸は前世で法華経を信じていたか、

それとも法華経を誹謗してきたかで決まるのだという。

前世で法華経を信じていた者は

現世に生まれ変わってきても法華経に巡り合って幸福になり、

前世で法華経を誹謗したり信じなかった者は謗法の罪の為、

現世で法華経に巡り合えず不幸な人生になってしまうというのだが、

何ともマンガチックな思想である。

この世において法華経を信じてなくても成功の人生を歩み、

幸福な人生を生きてる人はいくらでもいるものだ。

逆に法華経を信じていても不幸な人生の者もいくらでもいるものだ。

法華経を信じてなくても幸福な人がいることについて、

創価学会は「そういう人は、前世で善い事をしてきたからだ」などと苦し紛れの言い訳をしているのだが、

創価学会の理論によると、

法華経を信じなければいくら善業を積んでも福運は積めない為、

幸福になることはできないと主張しているのだから、そんな言い訳は通用するはずもない。

創価学会は法華経が宇宙の根本法則であるかのような前提で主張しているのだが、そもそも、近代の仏教学の研究によって、

法華経は釈尊が説いた教えではなく、

釈尊滅後、少なくとも500年以後に、

当時台頭してきた大乗仏教運動の中で創作された作り話である事が明らかになっているのである。

釈尊が説いてもいない後世の創作物が宇宙の法になどなる訳はなく、

そんな作り話を信じたから幸福になり、信じなかったから不幸になるなどという事などある訳がないのだ。

少なくとも、「最高の正しい仏法」を標榜するのなら、

その根拠として釈尊が説いた教えでなければ「正しい仏法」とは言えないのだ。

もし釈尊が説いてもいない後世の作り話が宇宙の法則だというのなら、

それこそ道理も論理も何もない滅茶苦茶な法則だという事になるだろう。

今どきこんなおとぎ話を主張しても現代では通用しないし何の説得力もない。

一家和楽の家庭が見当たらない学会活動家

創価学会は「創価学会で真面目に信心すれば一家和楽の家庭ができる」と大言壮語しているが、真面目に熱心に学会活動している学会員で一家和楽の家庭を築いている者など殆どいない。

自分の周りにいる学会員の熱心な活動家の家庭を見ても、

家庭内別居状態の者や何度も離婚騒動を起こしている者や

息子が非行化して暴走族になった支部長や、

難病の夫を捨てて蒸発した婦人部活動家やら、

こんな家庭が多いのだ。

このような家庭でも創価学会風に言えば

「一家和楽の家庭」になるのかも知れない。

 

 

 

 

創価学会は営利企業

創価学会は「暴力的な強引な折伏は、一部の末端の活動家が、

成果を上げようと成果主義に走った結果であり、

創価学会はそんな指導はした事がない」と、

聖教新聞や小説『人間革命』等に書いて弁解し、

末端の活動家に責任を押し付けているが、

それは一部の末端活動家だけの問題ではなく、

創価学会そのものが営利企業の成績至上主義・成果主義のシステムを

そっくりそのまま導入しているからに他ならないからだ。

と言うより、創価学会は宗教ではなく、宗教を装った営利企業だからだ。

まず、創価学会は折伏数や公明党支援の選挙のF票獲得数や聖教新聞の販売拡張数や会合への会員結集数など、全て数字での結果を重視しており、

数字による成果を出せなければ、いくら努力しても評価しない。

それは営業成績を上げなければいくら努力しても全く評価しない営利企業と同じなのだ。

だから創価学会は宗教を名乗っていても実質は営利企業なのである。

そんな創価学会では、成績の悪い地区や支部などの役職者は、

幹部会の席上で、上の大幹部から吊るし上げられ、罵倒されるのである。

自分も選挙戦の最中、男子部の幹部会(報告会)に参加した事があるが、

自分の地区の男子部幹部が他の成績の悪い地区幹部と共に立たされ、

「どの面下げて報告に来たんだ!」と大幹部から罵倒されているのを見た事がある。

これは宗教ではない。

少なくとも仏教ではない。

仏教の布教は成果の数字を上げる事が目的ではない。

仏教の布教つまり「法を説く」という行為は

悪質セールスのような無理矢理信者を増やすことではないのだ。

ところが、創価学会はどんな手を使ってでも信者を増やそうとし、

とにかく数字の実績に拘っているのだ。

これは創価学会が仏教ではなく営利企業だからである。

そして、学会員がこれだけ数字による実績・成績を要求され、

ノルマを課せられ、幹部連中から吊るし上げられ罵倒されれば、

何が何でも成果を上げる為、

暴力的に強引な折伏をするのは当たり前だと言える。

だから末端の活動家が強引な折伏を行なってきたのは、

創価学会そのものが行なわせてきた事なのだ。

創価学会の組織ぐるみの行動に他ならないのである。

これは創価学会の実態は宗教ではなく営利企業だという証明だと言える。

実際、創価学会はいくつもの企業を擁して営利活動を行なっており、

自画自賛しているような「仏意仏勅の清浄な宗教団体」などと言えるようなものではなく、

どこまでもがめつく営利を追求している企業に過ぎないのである。

 

学会の折伏の実態

創価学会は「折伏は慈悲の行だ」と大言壮語しているが、

創価学会の折伏は慈悲のかけらもない、

単なる勢力拡大が目的の悪質セールスと同じものでしかない。

創価学会は近年、小説『人間革命』等において、

「創価学会は暴力的な強引な折伏布教は断じて行なってはいない」と書き、

これまで行なってきた暴力的な強引な折伏の事実を打ち消すのに懸命であるが、

創価学会が暴力的な極めて強引な折伏を行なってきたのは紛れもない事実だ。

創価学会という集団は、自分達が行なってきた事実を認めようとさえしない極めて無責任な団体なのだ。

 

 

 

 

ポーズだけの「平和の団体」

創価学会は「仏法は勝負なり」とか「極悪と戦え」とか「闘争する事が仏法だ」とか「戦わざる者は去れ」とか、学会員の闘争心を煽り立て煽動する事ばかり言っているが、そんなものは仏法ではない。

仏教の開祖・釈尊は「勝てば他の怨みを受け、負ければ心安らかではない。故に、勝負は共に捨てるべし」と説き、勝ち負けへのこだわり、執着を捨てるようにと教えているのであり、それが仏法の根本精神になっているのだ。

確かに創価学会は外部に向かっては「世界平和」を標榜し、池田名誉会長は「世界平和の旅」と銘打って世界の著名人と握手して回っては平和の使者のような真似をし、創価学会がいかにも平和の団体であり慈悲の教団であるかのように見せかけているが、その内実を見れば、連日のように機関紙に「闘争しろ」「戦え」「勝負しろ」「執念を持て」等と書きまくり、会合でも幹部連中が吠えまくって、学会員の闘争心を煽っているのである。

このような創価学会は正に「阿修羅の宗教」だと言えるし、その実態は「好戦的な宗教」であり「闘争好きな教団」なのである。

創価学会流の「人間革命」

創価学会の会員、中でも役職者には厚かましい人間が多い。

役職者、特に地区幹部や支部幹部には

会員から借金をする、

会員の家を訪問すれば我が家のように勝手に上がりこんで来る、

更に訪問先の会員宅で食事などの世話を受けるのは当然という態度でいるなど、

とにかく厚かましい役職者が多い。

それは遠慮するのは生命力がないなどという雰囲気が学会内にあるからで、

厚かましく図々しい態度を取る事が人間革命の姿だなどという

創価学会特有の歪んだ理想像が役職者に植え付けられているからである。

「創価学会は人間革命できる信心」などと豪語しているが、

要するに、厚かましく、図々しく、図太い神経を持つ事が

創価学会の言う「人間革命」の姿らしいのだ。

 

 

折伏行は創価学会職員の務め

創価学会では、会員に対して幹部連中が

「折伏しろ」「折伏の成果を上げろ」と強要する。

だが、本来折伏などの布教は信者がするものではなく、

出家者や聖職者などのプロの宗教家が行なうものなのだ。

仏教の場合、出家者は世間の欲を捨てて修行と布教の生活をし、

在家信者は出家者の説法を聞いてその教えを生活の指針としているのだが、

出家者と在家者の役割としては

出家者は修行と説法及び布教に専念し、

在家信者は出家者の教えを受ける代わりに

出家者に布施をして生活を支えるという関係で成り立っているのだ。

キリスト教でも聖職者と信者は仏教と同じような関係になっている。

つまり、布教するのは出家者即ちプロの宗教家の務めであり、

信者には布教の義務などないのだ。

確かに創価学会は出家教団ではなく在家教団であるから、

創価学会の幹部連中は出家者ではないが、

しかし、創価学会の本部職員は世間一般の仕事をする事もなく

創価学会の運営に従事し、会員からの寄付金によって生活している訳だから、

在家の身ではあっても実質的に出家者と同じくプロの宗教家だと言える。

それは創価学会側もそう言っている事であり、

日蓮正宗と対立する直前に、池田名誉会長が『仏教史観を語る』と題する講演で

「出家も在家も同格」「創価学会は在家であっても供養を受けられる」と発言し、自ら出家者と同じ立場だと言っているのである。

だから創価学会の職員は在家者であっても出家者と同じくプロの宗教家だと言えるのだ。

そうであるのなら本来は、プロの宗教家である本部職員の幹部連中こそが折伏による布教を行なわなければならないのだ。

ところが、本部職員の幹部連中は自分達は折伏もしないで、

信者である会員に号令を掛けて折伏行を無理強いしているのである。

つまり、信者から寄付を受けて生活を支えてもらっていながら、

信者に折伏布教までさせているのが創価学会なのだ。

創価学会のトップに立つ池田大作名誉会長などは

世界の著名人と対談していても、

ただ仲良くしてるだけで、折伏など全然していない。

対談相手は皆、創価学会の部外者であり、

創価学会が言うところの「謗法者」ばかりなのだから、

本来ならその謗法者の著名人達を折伏しなければならないのだ。

しかし実際には折伏もしないでただ仲良くしているだけだ。

それで会員に向かっては「折伏しろ」「闘争しろ」と号令をかけているのだから、もはや呆れるしかない。

 

 

 

創価学会流の「大功徳」

創価学会は「真面目に学会活動している者は、皆大功徳を受けている」と豪語している。

では、人の金を盗んだY婦人部長も、

借金を踏み倒しているT地区部長も、

それは大功徳なのか?

この2人は共に熱心に学会活動しているのだが、

その結果が上に書いたような有り様だ。

 

創価学会では熱心に学会活動さえしていれば、

その結果がどういう事になっても

「大功徳」になるらしい。

 

 

「執念を持て」と指導する創価学会

創価学会は会員に対して「執念を持て」と指導している。

だが執念とは執着であり、

執着を持てと指導するようなものは仏法ではない。

仏法は「執着から離れよ」という教えを根本思想としているからであり、

執念即ち執着を持つ事を会員に強要し指導するような創価学会は

仏法ではない。

 

前書き

自分は創価学会2世の元学会員である。

自分が5歳の頃、母方の伯父から折伏されて創価学会に入信した父親が、

我々家族全員も学会に入信させ、自分も知らぬ間に学会員にさせられていた。

以来、青年部の途中まで学会員として生きてきたが、

創価学会にはずっと矛盾と疑問を抱きながらも、

仏教の知識に疎かった為、反論する事もできず、

仕方なく、学会活動に数年間没頭していた時期もあった。

しかし、創価学会への矛盾と疑問から仏教書などを読んでいくうちに、

創価学会の教義は今では正しい歴史的事実に基づいておらず、

伝説や言い伝え、あるいは迷信などによって成り立っているだけで、

創価学会が主張しているような「世界最高の正しい宗教」や

「宇宙根源の法則」でも何でもない事が判ってきたのだ。

創価学会の実態と仏教の歴史的真実が判ってからほどなくして

自分は創価学会を脱会して現在に至る。

このブログでは、自分が創価学会について

さまざまに考察して書き綴ったノートを基に、

創価学会への考察として公開していきたい。

なお、当ブログは『創価学会批評ブログ』の姉妹編として、

『批評ブログ』に書いていない内容を綴っているつもりだが、

重複する部分もある点についてはご容赦願いたい。

 

時空無限