創価学会は元々は「創価教育学会」という名称で、教育者の団体として創立されており、
創立者の牧口常三郎初代会長が著わした『価値論』という哲学思想が基になっている。
「創価」という名称はその価値論の「価値創造」から取っているそうだが、
しかし、自分が学会員だった頃、その価値論を学んだ事はなかった。
創価学会も牧口初代会長の価値論を会員に学ばせようという気もなかったようで、
支部で男子部の集会の企画を話し合ってる時、自分が「価値論の勉強会をしてはどうか」と意見を言った所、
とある幹部から「今どき価値論なんか学ぶ時じゃない」と言われた事がある。
そもそも価値論というのは、価値の本質や価値と事実の関係、価値判断の基準などを扱う哲学の一部門なのだそうだが、
西洋哲学で価値論というと、ヴィンデルバントら新カント学派などが唱える「真・善・美」の価値体系が有名だ。
「真・善・美」とは認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美の事で、
人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。
つまり、「真」とは嘘・偽りのない、真実・誠意を意味し、
「善」とは善い事、道徳的に正しい事の意味を持ち、
「美」とは、美しく調和の取れた状態を表わし、
人間が生きる上での最も調和された最高の状態を表わす言葉として使われる。
それに対して牧口初代会長は「人生の目的は価値創造にある」という理念を唱え、
「真・善・美」の中の「真」の代わりに「利」を置く「利・善・美」の価値体系を主張した。
「真・善・美」という価値は人間に取って役に立つ価値基準ではなく、
「利」を中心に置いてこそ人間にとって有用であるという考えによるようだが、
そういう観点からすると、牧口初代会長の価値論はウィリアム・ジェイムズやジョン・デューイらのプラグマティズム(実用主義哲学)や、
幸福と利益を価値の標準とし、人生の主たる目的とするベンサムらの功利主義哲学に相通じるものがあると言える。
だからなのか、近年、聖教新聞に、アメリカのジョン・デューイ協会との交流がしばしば記事になっていたが、デューイのプラグマティズムや教育哲学との接点が創価学会にあったようだ。
それはともかく、牧口初代会長の「利・善・美」の価値論には哲学者の梅原猛氏が批判をしていたものだった。
「真」を外して代わりに「利」を掲げている事について、
次のように批判している。
[ここより引用]
真を価値の座からしりぞける牧口の理論は、
実践的な結果として、
真の価値を それ自身として求める人生態度を否定するということになる。
創価学会ではしき りに空理空論にふける学者への攻撃がなされるが、
利を尊ぶ創価学会は一見空 論に見えるものがいかに人間生活を変え、
いかに人間の幸福を増進せしめるか ということに対して
あまりに近視眼的であるかに見える。
この態度は後に論ず るように彼らの宗教的ドグマを真理追求の精神によってあくまでも問いつめて いく理論的徹底さを許さない原因ともなろうが、
今後人類はあくまでも科学的 な真理にもとづいて出来るだけ理性的に戦争をさけ、
人類全体を平和と繁栄の 方向に持って行くという方向をたどらねばならない以上、
価値の座から真を引 きおろした創価学会の価値学説は
世界の指導原理として好ましくないものと言 わねばなるまい。
[引用ここまで]
つまり人間に都合の良い利益をもたらす事を最上とする考え方を批判している訳だが、
確かに真理とはそれ自体、人間に利をもたらす事とは無関係に存在しているものであり、
真実なるものそれ自体を真理から外すのは、梅原氏の言う「近視眼的」な態度だと言えるだろう。
牧口初代会長はこの「利」をもたらす実践行として
日蓮正宗の信仰を選んでいるのだが、
なぜ、利をもたらすものが日蓮正宗の信仰になるのか。
日蓮正宗の現世利益的な信仰が利をもたらす実践行だと考えたのだと思われるが、
せっかく哲学的思考によって考え出したものを、
曼陀羅本尊を拝む事によって現世利益が得られるという迷信信仰へと堕してしまってるのが残念というか解せない部分だと思う。
創価教育学会から創価学会へと変わってから牧口価値論は前面に出さなくなったようだが、
それでも牧口価値論が最上として掲げる「利」が現在でも創価学会の理念となっているのは確かだ。
現世利益の功徳論や、貪欲な飽くなき利益追求の創価学会の姿は、
正に「利」を追求している姿だと言えよう。