現代社会でも通用する釈尊の教え

前回の記事にも書いたが、

釈尊の思想は創価学会が言ってるような「現代では死んだ法」などではなく、

現代においても通用する真理である。

勿論、現代社会で釈尊と全く同じ生き方はできないが、

その核心となる部分は現代でも通用するのは言うまでもない。

釈尊の教えの中核となるのは中道の思想である。

その中道の具体的な行法として八正道を説いている。

八正道は出家者の為の修行法ではあるが、

一般在家者でも行なう事ができる行法だ。

八正道は簡単に書けば以下の通り。

①正見…正しく見る

②正思…正しく思う

③正語…正しく語る

④正業…正しく行動する

⑤正命…正しく生活する

⑥正精進…正しく努力する

⑦正念…正しく念を向ける

⑧正定…正しく瞑想する

八正道の正しさの基準になるのが中道であり、

中道の物差しで自分の思考と言動が極端に偏っていないかチェックするのである。

八正道は古代インド仏教の修行法であったと言っても

現代の一般在家者でもできる事である。

勿論、真に解脱し涅槃の境地に入る為には釈迦時代の出家修行者のように、

俗世間から離れて修行に専念する必要はあると思うが、

出家修行者とまで行かなくても、少しでも自分の心の境地を高める為に、

八正道を日々の生活の中で実践する事は不可能ではないだろう。

というより、この八正道にしても中道にしても、

普通、人が無意識に行なっている事でもあると思う。

自分もそうだが、人生では何らかの失敗をするものである。

そんな時、人は普通、自分の言動を省みて後悔したり反省したりするものであり、

失敗しては反省して行き過ぎなどを軌道修正しながら生きていくものである。

それは意識するしないに関わらず、知らず知らずに中道の生き方をしていると考える事もできるのだ。

勿論、それを修行として意識して行なっている訳ではないので、

出家修行者のように解脱する所までは行かないにしても、

自分の身口意の三業について極端に行き過ぎた所を是正しようとするものであり、

それがつまり中道の物差しによる軌道修正になるのではないかと思えるのである。

そういう観点から見れば、現代の一般在家者でも、

日頃の自分の言動に意識を向け、自己の内面へと向かう為に瞑想も取り入れる事によって中道と八正道を日常生活の中でも行なう事ができると思えるのである。

いずれにしても、釈尊の教えとその具体的な修行法は

古代インドの古臭い遺物などではなく、

現代社会でも通用するものであり、

それどころか、形骸信仰と迷信信仰化された現代宗教よりも現代的ではないかとさえ思える。

特に、創価学会が主張しているような、曼陀羅本尊に題目を唱えていれば自然に全て良くなるなどというような事はあり得ないし、ましてや公明党支援の票集めをしたからといって人間革命できるなどという事もあり得る訳がないのだ。

そんな迷信じみた無駄な苦行をするよりも釈尊の八正道を実践した方が遥かに役に立つのではないだろうか。