欲望を全面肯定する創価学会

創価学会が現世利益を力説する根拠となっているのは、

大乗仏教で説く「常楽我浄」の四徳の思想にある。

本来の仏教即ち初期仏典に説く釈尊の教えでは、

この世を苦の世界と捉え、苦の原因として、

この世は無常の世界であり、無我(我が所有ではない)だからであると説いている。

この世の諸事象を観察すれば正にその通りである事が判る。

そして釈尊は、苦を克服する為にはこの世の欲望への執着から離れよと説いているのであり、仏教の修行とは、欲への執着から離れる事にあるのだ。

ところが、この世を「常楽我浄」と見ている創価学会は、

この世は実は仏が常住する世界であるとし、

この世は楽土であり、絶対的幸福境涯が実現できる世界であるとし、

清浄な世界であると主張しているのだが、

この考え方は一見現実肯定で前向きな考え方のように見えるが、

釈尊の説いた中道の物差しを外してしまうと、

この世の我欲をとことん追い求めて欲望の全面肯定になって欲まみれ、邪欲まみれ、我欲まみれとなってしまう。それが創価学会なのだ。

現世利益の大功徳を大々的に宣伝し、功徳を得る為と称して行なっている常識外れの学会活動にしても金集めにしても中道から外れて極端に偏っている姿なのである。

日本の仏教諸宗派も同じく大乗仏教であり、

思想として「常楽我浄」の四徳を元にしているが、

伝統仏教の場合はまだ仏教の根本である中道の立場に立っているから創価学会のような常軌を逸脱した非常識な行動には至らないが、

創価学会のような団体にとっては仏教の中道思想などはあってないようなものなのだ。

創価学会は宗教というよりも仏教をビジネスとして利用している団体だからだ。

仏法は「魔法の杖」ではない

創価学会は「この信心をすれば病気が治る、金持ちになる、

生活に困らなくなる、出世する、仕事で成功する、

何でも願いが叶う」等々と主張して現世利益を強調しているが、

本来仏教は現世利益信仰ではなかったのだ。

釈尊が説いた教えは苦の克服が目的であり、

苦を滅する為に我欲への執着から離れよという思想であった。

創価学会が宣伝している功徳というのは、

結局自分の願望欲望を実現することであり、

それは我欲への執着に他ならない。

創価学会が信奉しているのは日蓮仏法だから釈迦仏法は関係ないなどと言ってるが、元々の釈尊の教えを無視するのなら、それはもう仏教とは言えないだろう。

日本の仏教は大乗仏教で釈尊の本来の教えとは違ったものになってしまっているが、それでも基本思想として我欲への執着から離れるという根本思想が現存しているのであり、だから自分も現在の日本仏教も仏教と認めているのだ。

しかし、創価学会は「釈迦仏法は死んだ法でしかない」などと貶して完全否定しており、もはや仏教とは言えない団体になっている。

欲望の全肯定が創価学会であり、それは釈尊の教えの真逆の考え方でしかないのだ。

例えば、創価学会は「この信心をすれば病気も治る、仕事もうまくいく、金持ちになれる、何でも願い通りになる」などと我欲を煽るような事ばかり主張しているが、

釈尊は、この世は無常の世界だから良い事もあれば悪い事もあると言っているのであり、実際、我々の人生では良い事もあれば悪い事もあるのは事実だ。

そして、どんなに気をつけていても悪い事に遭遇するものだし、

悪い事を避ける事ができない場合もあるものだ。

そういう悪い事に遭遇した時、どのような心の持ち方で苦しみを滅するべきか、そしてどのような心で生きるべきかを説いたものが本来の仏教なのだ。

創価学会が宣伝してるような自分の欲望を叶える事が目的ではないのであるし、そもそもこの人生では自分の欲望を全部叶える事など不可能だ。

必ずと言っていいほど自分の思い通りにならない事はあるものだ。

そのような時、どういう気持を持って苦しみを克服してゆくべきかと説いているのが釈尊の教えなのであるし、仏法なのだ。

仏法とは創価学会が言うような呪文のような言葉を紙切れの本尊に唱えれば自分の願い通りになるなどいう魔法の杖みたいなものではないのである。