念仏信仰と日蓮の思想について思う

「きんさん・ぎんさん」の記事に念仏信仰の事を書いたので、

今回も念仏信仰について考察しておきたい。

調べてみると、念仏と言っても様々な修法があるそうだが、

日本では「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)が、

浄土宗の開祖・法然と、その弟子で後に浄土真宗を開いた親鸞によって弘められていて、

念仏と言えば称名念仏を指す事が多い。

法然・親鸞と同時代人だった日蓮は特に法然の念仏信仰を『四箇格言』で「念仏信仰は無間地獄に堕ちる」と言って激しく批判攻撃しているし、その日蓮を宗祖としている創価学会も念仏信仰を批判している。

日蓮正宗と決別して抗争するようになってからは他の宗教に対してはあまり批判しなくなっている創価学会だが、それでも思い出したように聖教新聞や大白蓮華などの機関紙誌に日蓮の御書の解説で念仏信仰を批判している事がある。

自分も脱会した後も、創価学会にいた時の影響で念仏信仰を見下すような気持ちを持っていたものだった。

確かに念仏信仰は創価学会が批判していたようにこの世を穢土(穢れた世界)とし、

厭世的で無気力な生き方に導いてしまうような思想とも言えるが、

しかし、念仏信仰がなぜ一般民衆に広まったのかは、当時の時代背景も考慮する必要がある。

当時は封建社会で、一般民衆は権力者から抑圧されていた時代であり、

そういう時代には権力者に対しては諦めるしかなかったという背景があった。

そういう人生を諦めるしかなかった一般民衆の心の支えになったのが念仏信仰だったと言える。

厭世的で諦念思想の念仏信仰に対して、日蓮の思想は創価学会が強調していたように現実変革の傾向が強いのは確かだが、しかし、日蓮の思想によって実際に現実を変革できたかというとそれができていないのだ。

仏教は本来、自己の内面へと向かう教えだが、創価学会は日蓮の思想を仏法の本流であるかのように喧伝し、社会や政治など、その関心を自己の外へと向けて「現実を変革するのが仏法だ」と主張している。

しかし、いくら現実変革の仏法だと叫んでいても実際には日蓮仏法で現実の変革はできていないのだ。

その現実変革の最終目標として「広宣流布の実現」を掲げているが、日蓮の時代から現在まで、広宣流布は達成できていない。

「現実を変革できなければ仏法ではない」と言いながら、自己の内面を疎かにし、その上、現実も変革できていないのが創価学会だと言える。

また、創価学会は日蓮は鎌倉幕府の迫害に遭って本仏としての境地に立ったと言っているが、

法然と親鸞も幕府の弾圧に遭って流罪に処されているのであり、

日蓮だけが迫害を受けている訳ではないのだ。

以前は創価学会の教学だけで念仏信仰を見ていたが、

何事においても一方的な見方だけでは実相を知る事はできないという事を思ったし、

近頃は念仏信仰・浄土思想への考え方も変わってきている。