苦しみしか生じない創価学会の信心

釈尊は「思うがままにならない事を思うがままにしようとするな」と説いた。

人生においては、いくら努力しても思うままにならない事が多々あるものだ。

そういう思うがままにならない事を思うがままにしようとする事によって、

苦しみ悩みが生じてしまうのだ。

勿論、努力などによって思うがままにできるのならいいのだが、

どんなに努力しても思うままにならない事はある。

そんなどうする事もできない事をいつまでもどうにかしようとしても、

ただ苦しみ悩むだけでしかない。

それを無理してどうにかしようとすると

犯罪に走ったり、

果ては自殺や無理心中をしたりと、

破滅に向かってしまう結果になってしまうのだ。

そのようなどうにもできない事をどうにかしようとせず、

そのような苦しみの元への執着から離れよと説いたのが釈尊の教えなのだ。

それが仏教の基本思想なのだ。

ところが、仏教を名乗っている創価学会は、

その逆に、思うままにならない事を思うままにしろと主張しているのだ。

つまりそれが学会の言う所の

「不可能をも可能にする信心」とか

「この本尊に祈れば願いとして叶わざるなし」

というキャッチフレーズなのだ。

これなどは、思うままにならない事を

思うがままにしようとして、

更に人の我欲を煽り立て、

我欲に執着させている事になるのである。

創価学会が主張しているように

本尊に祈って実際に思うままになるのなら別に問題はないが、

創価学会の本尊にどんなに題目上げて祈っても、

願い通りにならない事は多々あるし、

願い通りにならない事の方が多いくらいだ。

それが実際の所なのだ。

それだけでなく、

創価学会では更に、財務など金集めでは

「財務に出せば出すほど福運が何倍にもなって返ってくる。

だから出し惜しみせず、精一杯の額を財務に出せ」と会員に迫り、

そこで「この信心は不可能をも可能にするんだから今こそ実証を示すために精一杯の金額を出せ」

と、更に欲を煽って金集めをするのである。

しかし、言われた通り精一杯の額を差し出しても、

勿論功徳の実証を示す事もできず、

その後、金に困って周りから金を借りまくって更に人に迷惑を掛ける結果になってしまうのだ。

熱心な学会員には功徳どころかそういう問題を抱えている者の方が多い。

それは当たり前の話であり、

紙の細工物に過ぎない創価学会の本尊にいくら祈ろうが、

不可能をも可能にするような功徳など出てくる訳もないのだから、

自分の全財産やそれに近いほどの金額を貢げば、

生活に困って人から借金しなければならなくなるのは当然の結果だからだ。

釈尊は、”苦”が生じる因縁は、思うがままにならないことを思うがままにしようとするからであり、そこへ執着するから「苦しみ」が生じると教えているのだ。

故に、「不可能をも可能にする信心」だとか

「財務に金を出せば出すほど何倍にもなって返ってくる」

などという創価学会の指導は道理に反するから仏法ではないし、

苦しみしか生じないのだ。