後世に作られた末法思想

創価学会は、末法では釈迦仏法は「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」して功力がなく、日蓮の「大白法」でなければ救われないと主張し、

現代ではその日蓮仏法を正しく継承している創価学会で信心しなければ救われないとうそぶいている。

要するに正法・像法・末法の三時説の事なのであるが、

創価学会が末法においては釈迦仏法では救われないという論拠にしているこの三時説もまた、学会が「法華経こそ釈尊の真実最高の法」と主張する論拠としている天台の五時教判と同じく、何の歴史的根拠もない、ただの作り話でしかない。

正法・像法・末法の三時説は中国で作られた話で、しかもいくつもの三時説があり一定していないのだ。

中国の天台智顗はその中から釈迦滅後一千年を正法、その後の一千年を像法、

そしてその後の万年尽未来際を末法とする説を用いたのであり、

日蓮もその説を用いているのだが、

その三時説の内容としては、大乗仏典の中の「大集経」を使っているのだ。

大集経では仏の予言として、釈迦滅後を500年毎に区切り、

それを「後五百歳」説としているのだが、

それによると、第1の500年間は「解脱堅固」の時代で、

釈迦仏法によって悟り解脱する者が多い時代だとしている。

第2の500年間は「禅定堅固」の時代で、

禅定の修行に励む者が多い時代だという。

第3の500年間は「読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)」という時代で、

仏教経典を読誦し説法を聞く者が多い時代だという。

第4の500年間は「多造塔寺堅固」の時代で、

仏塔や寺院がたくさん造られる時代だという。

そして第5の500年間は「闘諍堅固(とうじょうけんご)」の時代で、

争い諍いが多くなる時代だという。

つまり、これを正・像・末の三時代に配すると、

第1と第2の500年、両方合わせて一千年が正法時代。

第3と第4の500年、両方合わせて一千年が像法時代。

そして第5の500年が末法になるのだとしているのだが、

つまり、釈迦滅後の正法一千年間は釈迦仏法によって解脱する者が多く、

また、禅定の修行に真面目に励む出家者も多いのだという。

それが次の像法一千年間は、釈迦仏法が形骸化してくる時期で、

形式的行として経文読誦や説法を聞く事や、

仏塔や寺をたくさん造る事が盛んになるのだという。

それが末法に、つまり「後五百歳」である第5の500年間に入ると、

釈迦仏法は功力を失い、世の中は乱れ、争い事が多くなるのだという。

日蓮は、この釈迦仏法が功力を失った末法では法華経を、それも自分がその法華経の文の底から取り出した宇宙根源の法だという「南無妙法蓮華経」の題目を、

日蓮が宇宙根源の法を形として顕わしたという曼陀羅の本尊に唱えると共に、

折伏を行なわなければ救われないと断じたのである。

創価学会はその日蓮の主張をそのまま継承している訳なのだが、

実は、日蓮が正・像・末の三時説の根拠にした「大集経」そのものが

近代仏教学の研究で、中国で作られた偽経である事が判明しているのである。

つまり、その大集経の内容は、未来の予言ではなく、

実際にこれまで起きた仏教の堕落を予言の形で書いて、

仏教者に対して警告をし、批判している内容なのである。

また、正法・像法・末法の三時説についても、

インドで作られた経典には正法と像法しか書かれてなくて、

末法という考え方はまだできていなかったというのだ。

しかも、その正法・像法の意味も、

インドでは正法は文字通り「正しい法」という意味であり、

像法とは「正しい法に似たもの」という意味だったのだが、

それが中国では、正法・像法という言葉が時代区分を表わす意味に変えられてしまったのだ。

つまり、釈迦滅後一千年間(他に異説がいくつかある)が正法、

その後の一千年間(これも、他に異説がいくつかある)が像法で、

そして、これに中国で末法という言葉が作られて、

ここに正・像・末の三時説が出来上がったのだ。

その内容も、正法時代は釈迦仏法で悟りを開く事ができる時代であり、

像法時代は釈迦仏法が形骸化して、修行をする者はいるが正しく悟れる者が少なくなる時代であり、

末法になると釈迦仏法は完全に功力を失い、修行する者も悟れる者もいなくなり、

世は乱れ天変地異が多発し、人間も悪質な者が多くなり、救いのない時代になるとしているのである。

日本の鎌倉時代のいわゆる鎌倉仏教は、そのような末法到来という危機的時代相の下、

釈迦仏法に代わる末法の衆生を救う新たな法の確立を目指して立宗されていったという経緯があったのだ。

それが法然の浄土宗や道元の禅宗(曹洞宗)や、日蓮の法華経を基にした日蓮宗(法華宗)だったのだ。

だが、結局その正法・像法・末法というのはすでに書いたように、中国で作られた作り話に過ぎず、故に、末法になれば釈迦仏法は功力を失うという事などあり得ないし、末法では日蓮仏法でなければ救われないという事もないのである。

真理としての法則というものがあるのなら、その法は免許証の期限切れみたいに、ある一定の期間が過ぎたら功力がなくなるという事などある訳がない。

真理というものは大昔から未来に渡って永遠に変わらないものなのだ。

釈尊滅後二千年経って末法に入ったから法が変わってしまうというものではないだろう。

途中で変わってしまうようなものは真理でも宇宙の法でもないのだ。

結局、正・像・末の三時説にしても、末法になれば日蓮仏法を信じなければ救われないという考え方にしても、宇宙の法ではなく、人間の浅知恵によって考え出されたものでしかないのだ。