「一念三千論」考

自分は創価学会にいた頃は、天台大師智顗の思想に関心があった。

特に「十界」や「十界互具」「一念三千論」の細密な心の世界を顕わした教理に関心があった。

日蓮を宗祖とする創価学会に在籍していても、

日蓮よりも智顗の思想に心惹かれ、もっと智顗の思想を、中でも一念三千論を詳しく知りたいとさえ思っていたほどだった。

後に、智顗が立てた五時教判は歴史的事実ではなく、智顗の勝手な想像によって立てられたものでしかないという事が判った後でも、

智顗の一念三千論は理論としてよくできた教理だと今でも思っている。

一念三千とは、簡単に言えば瞬間瞬間の心に三千と言われるあらゆる心の世界が具わっているとする教理で、実践としては瞑想によって自己の心の中に具足する仏界を観法することをいう。

そのように、心の諸相を顕わし、心の状態を高い境涯へ上げてゆく為に瞑想を行じてゆくのが智顗の説いた一念三千論であるが、

日蓮も智顗の一念三千の理法を受け継ぎ、やはり仏法の極理としたが、

智顗の一念三千は理論だけの説明書のようなものだと断じて「理の一念三千」と名づけ、像法時代なら「理の一念三千」で効果があったが、今末法の世では衆生の機根が低い為効果がないとし、機根の低い末法の衆生を救うには理論ではなく実践が必要だと論じた。

その具象化として自身が顕わした十界曼荼羅の本尊に法華経の題目を唱えるという実践が必要だと説いた。

そして智顗の「理の一念三千」に対して自身の唱題行を「事の一念三千」と称し、末法における成仏の為の実践行だと宣揚したという訳なのだが、

しかし、智顗の一念三千は理論だけでしかないと言ってるが、

智顗の一念三千は単なる理論だけのものではなく、

瞑想によって心の境涯を高めるという行を実践しているのである。

心の境地を仏界まで高めるという事は、自己の内面に向かう事に他ならず、

その為に釈尊以来の仏教は自己の内面へと向かう瞑想を重要な仏道修行としてきたのである。

「事の一念三千」を仏界湧現の実践行だと言ってみたところで、

その行というのが日蓮が造った曼陀羅に呪文のような題目を唱えるという迷信信仰では、自己の心を仏界まで高めるのは難しいのではないだろうか。

まだ日蓮なら一般人よりも日本を救いたいという高潔な志を持っていたと思われるから、

その高い志で唱題する事によって高い境地へと向かえたのかもしれないが、

機根が低いという末法の衆生には逆効果になってしまうのではないか。

その証拠が、創価学会の姿なのである。

創価学会は日蓮の唱題行を「事の一念三千」として継承しているが、

「闘争しろ!」とか「戦え!」と叫んで学会員の闘争心を煽っており、煽られた学会員も、その闘争心によって本尊に唱題している訳なのだから、そんな闘争心で題目上げていたら、仏界どころか阿修羅界が湧現してしまうだろう。

それが一念三千論の理屈なのだから、その理屈で言えば、ガラの悪い学会活動家は阿修羅界、金集めばかり考えている金の亡者の学会首脳部の連中は餓鬼界とか地獄界辺りに行くのではないだろうか。

いずれにしろ、一念三千の理論に照らしても、創価学会で信心活動しても、仏界ではなく阿修羅界とか餓鬼界・地獄界の境涯にしかなれないという事なのである。