創価学会の本尊には本仏・日蓮の生命が宿っているというのが創価学会の教義だ。そして、その本尊の紙曼荼羅に題目を唱えて祈れば何でも願いが叶い、人間革命を達成して、崩れることのない絶対的幸福境涯になれるのだそうだ。
しかし創価学会が仏教だと言うのなら、創価学会のその教義は仏教としてはあり得ない話なのである。
まず、本来の仏教で説く仏というのは、あらゆる執着から離れた境地を言うのである。
仏教の開祖・釈尊は物事への執着を捨て、
それによってあらゆる煩悩から解脱する事ができたのであり、
それを仏の境地というのだ。
あらゆる物事への執着から離れた者が仏なのだから、
そういう仏の生命とやらが板曼荼羅や紙曼荼羅の本尊という物体に宿る訳がないのである。
もし本当に創価学会が言うように日蓮の仏の生命が紙曼荼羅本尊に宿っているとしたら、
それは日蓮が本尊という物体に執着している事に他ならない訳なのだ。
物体に執着して宿っているようなものは仏ではなく、
スピリチュアル風に言えば憑依霊という事になってしまうだろう。
だから、仏教の立場で言えば、創価学会が主張しているような
仏の生命が本尊に宿るなどという現象はあり得ない話なのであり、
そんな事を主張するようなものは仏法ではないのである。