「謗法」を根本悪に定める創価学会の行状

創価学会と言えば、仏教を自称していても、

宗教団体・仏教団体とは思えないような下品で口汚い罵詈雑言や、

軍隊か暴力団かと思われるような荒々しさやガラの悪さで有名だが、

今回の記事では、創価学会の傲岸不遜な語り方や態度は何に基づいているのかを考えてみた。

勿論、「創価学会は宗教ではなく宗教を装った詐欺団体だからだ」とか

「創価学会はカルトだからだ」と一刀両断に言う事もできるが、

ただ、よく言われる「カルト」「宗教ビジネス」「詐欺団体」であっても、

内実はともかくとして、少なくとも表面上は宗教団体らしく、上品な言葉遣いとか気品のある態度を見せるものであるし、特に詐欺師ならなおの事、上辺だけでも宗教家や仏教者らしく振舞って見せるものである。

ところが、創価学会は見栄や体裁などお構いなしに、とことん汚い罵詈雑言や下品な罵倒の言葉を吐き散らし、

暴力団かと思われるようなガラの悪さも隠そうとはしないのである。

それは何故なのかという事について考えてみた。

その答えは機関誌の『大白蓮華』の中にあった。

2004年9月号の大白蓮華の「質問箱」というコーナーに

「仏法で説かれる身・口・意の三業のなかで最も重要なものは何ですか」という質問があり、

それに男子部教学部長が答えているのだが、

その中で、原始仏典(阿含経)の中の『テーラ・ガーター』にある言葉を引き、

まず、仏教思想としての身口意の三業についての一通りの説明を書いている。

つまり、身業は身体的な行ない。

口業は言葉による行為。

意業は感情や思考といった精神的行為。

という説明をし、

続けて、「仏法の業思想では人間の自由意思が強調されていて、

三業の中で意業が最も重視されている。

つまり、業(行為)の本質は行為する人の意思にある」から

意業が最も重要なのだと書いているのだが、

そこから、日蓮が迫害されたのは一般的な悪い行ないを為したからではなく、

「謗法」の故だからだと答えているのである。

そして、妙法に対する「不信」「軽信」といった謗法の意業が一切の罪業の根本悪であり、

その根本悪の意業を消していくために謗法の法師(日蓮正宗の僧侶の事か?)と戦い抜く折伏が重要なのだと結論づけしているのだが、

普通、仏教で言う「意業」による悪業とは、悪意・悪念・悪心・邪心など、悪の心を起こす思考の事を言うのだが、

創価学会では、そういった一般的な「悪い考え」よりも「謗法」つまり正しい教えを信じない心が最も悪いのだと決めつけているのだ。

そうして「謗法」の心こそ最も悪い行ないなのだと言っている訳である。

しかし、そもそも、「謗法」というものは、引用している原始仏典である阿含経にはなく、

あくまでも主に日蓮の思想にしかないものである。

つまり、本来の仏教では「謗法」など問題にしていないのである。

それを創価学会は「謗法」こそ最も悪い行ないであり、

「謗法厳戒」こそ最も重要な仏法の教えなのだと決めつけているのだ。

また、創価学会の日頃の言動を見れば、口汚い罵詈雑言は口業で悪業を造り、

ガラの悪い行為は身業で悪業を造ってしまう事くらい仏法者ならすぐ判る事だが、

この質問に答えている教学部長はそんな事は全く問題にもしていなくて、

ただひたすら「謗法」の意業こそ一切の罪業の根本悪なのだと言い切っているのだ。

この事を裏返して言えば、

謗法を犯さなければ、口汚い罵詈雑言や下品な罵倒の言葉を吐こうが、

ガラの悪い行為をしようが、全く構わないのだと言っている訳なのだ。

「謗法」という根本悪さえ犯さなければ

他の身口意の三業で悪を行なってしまっても悪にはならないのだと言いたいようなのだ。

どうやらそれが創価学会の「業思想」らしいのである。

だから、聖教新聞や創価新報などという、信者に読ませる為の自分達の機関紙にあれだけ下品な罵詈雑言を平気で掲載できるのであろうし、暴力団まがいの事でも平気でできるのであろう。

つまり、それが創価学会の思想となっているから、

汚い言葉を吐いても悪い事だとは思ってないし、

迷惑行為や犯罪行為さえ行なっても悪い事だとは考えてないのだ。

そのように考える事ができよう。

しかし、創価学会がそのように考えているからといって

実際もその通りとは限らない。

本来の仏教では、つまり釈尊の思想では、

例えば毒のある言葉を吐けばそれは自分に返ってくると説いているが、

創価学会がいくら「謗法厳戒」しているからどんな毒のある言葉を吐いても大丈夫だと思っていても大丈夫とは限らないのだ。

謗法思想というのは日蓮系や創価学会が言ってるだけの話なのだから、

それが真理真実とは言えないからだ。

いずれにしろ、創価学会の常軌を逸した言動は、

まともな思想によっては成り立たない考え方である事は確かだ。