創価学会と日蓮正宗の不毛な泥仕合

日蓮正宗は創価学会のコピー曼荼羅について「ニセ本尊の害毒で不幸になる」と批判し、創価学会は日蓮正宗総本山の板曼荼羅の大本尊を「謗法の地にあるから拝んでも功徳はない」と貶して泥仕合を続けているのだが、

本来の仏教からすれば、日蓮正宗や創価学会の本尊が本物だろうと偽物だろうと、どちらにしてもそんな人間が作った細工物に仏の生命など存在していないのである。

たとえ、その板曼荼羅の大本尊が宗祖・日蓮が直接造ったものだとしても、

板や紙の本尊なるものに本仏などいないのである。

以前にも書いたが、仏とは事物への執着から離れた境涯にあるのだから、

板曼荼羅や紙曼荼羅の物体に宿ったりはしないのである。

スピリチュアル風に言えば、

もし日蓮の生命が曼荼羅本尊に宿っているとすれば、

それは曼荼羅に執着している地縛霊という事になってしまうだろう。

「こっちの本尊が本物だ」とか「こっちの本尊の方が功徳がある」などと言い合いしていてもそれは全く不毛な泥仕合でしかないのだ。